2008年7月6日(日)聖日礼拝で、中島光成牧師は、「ペテロの手紙第一4章7-11節」から、「恵の管理者」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所の「10節」には、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」というように記されています。私達は、自分が幸せになりたいと思って、自分の幸せだけを求めても、幸せになれません。私達が、互いに自我を捨て、互いに命を捨て、互いに仕え合っていく時、私達は、本当の幸せが与えられるのです。本日は、次の2つの事についてお話しします。
@ 「与えられた恵み」: 「恵み」という言葉は、「与えられるもの」という語源から来ています。全てのものは、神が創造され、神から与えられたものです。私達の体、持ち物、金、時間、知恵、健康、人間関係、出会い、社会状況、命、福音、永遠の命、神との関係、など、全てのものは、神が与えてくださったもので、「神からの恵み」です。でも、自己中心的な人は、それらの「神からの恵み」を、自分のものと錯覚して、全部自分のものと思い違いをしているのです。又、人間は、「創世記1章28節」に示されるように、「地を従え、すべての生き物を支配せよ」というように、神から命じられており、神に代わって、すべての環境を上手に管理し、美しい世界を保つように命じられているのです。しかし、人間は、自己中心で、自分勝手に、環境を支配してしまい、地球も荒れ果ててしまうようになって来ています。使徒パウロは、「コリント人への手紙第二6章1節」で、「神の恵みをむだに受けないようにしてくだい。」というように、コリントにある神の教会の人々に懇願しています。では、私達も、有限の世界にあって、限りある時間に、限りある能力をもって、互いに仕え合いながら、「神からの恵み」を「どのように生かしていくか」、次に考えてみましょう。
A 「恵みを生かすために」:
「恵みを有効的に生かすために、何から先に行っていくか」、その優先順位を考えてみると、その先ず第一に挙げられる事は、「礼拝第一」という事です。でも、その「礼拝」とは、単なる「形だけの礼拝式」だけのことではありません。神のみこころ、御旨に沿っていき、生活をしていくという事です。それは、「ローマ人への手紙12章1-2節」にも示されるように、「私達のからだを、生きた供え物として捧げる」ということですが、更に詳しくは、「神のみこころは何か、即ち、何が良い事で、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える」という事です。私達は、毎週聖日の教会堂での礼拝で、神を讃え、賛美し、祈り、メッセージを戴き、感謝するとか、聖書の学びなどの集会いうだけでなく、いつも、絶えず、「生ける神との交わり、復活のイエス・キリストとの再会、聖霊との親しい交わり」という時を過ごすことによって、「神の恵みが生かされていく」ということになります。今から約3,500年前に、イスラエルの民が、エジプトでの奴隷生活から解放され、「十戒」が与えられ、礼拝の大切さも教えられました。また、イエスさまは、「神の国と神の義を求めなさい」と言われ(「マタイによる福音書6章33節」参照)、また、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(「マタイによる福音書22章37-39節」参照)という新しい契約を示されました。また、イエスさまがベタニヤに行ってマルタの家に招かれた時、マルタはその接待の準備で忙しく、彼女の妹のマリヤは、主イエスさまの足もとに座って、みことばに聞き入っていたのです。すると、マルタがイエスさまにお願いした事は、マリヤがマルタの手伝いに来るようしてほしいという事でした。しかし、イエスさまは、「どうしても必要なことは一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と言われたのです(「ルカによる福音書10章38-42節」参照)。
結び: 私達は、神の恵みの良い管理者として、日々、お互いに仕え合い、神のみこころに聴き従って、心から神を礼拝し、崇め、感謝し、賛美していき、神の栄光が顕されるような歩みを続けていきましょう。
2008年7月13日(日)聖日礼拝に、ハワイのウエスト・オアフ・キリスト教会の中村裕二牧師先生、奥様の智恵子先生が来て下さり、「マタイによる福音書6章33節」を中心聖句とし、「神の国と神の義」と題して、賛美音楽、お証し、みことばを通して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
先ず、智恵子先生は、「My Song of Praise」という歌(作曲者: John W. Peterson; 訳詞者: 斉藤善樹)を、声高らかに歌って下さいました。その歌は、「喜ばしき声を高らかに上げ」、「天国を離れて私の救いのために来られた主、イエス・キリストに捕らえられ、新しい人生をを歩む」という「喜びの賛歌」てす。
次に、智恵子先生は、息子の匡さんが作曲して、それが裕二先生によって作詞された「祈り」という歌を、祈りを込めて歌って下さいました。その歌詞にも示されるように、智恵子先生の歌声を通して、「執り成しの祈りが、山も空も越えて、遥かに神のもとへ」捧げられて行きました。続いて、智恵子先生から、次のようなお証しがありました:「私は、韓国人の父と日本人の母によって、韓国で生まれ育てられましたが、母が日本人であることは、高校生の時に知ったのです。それまでは、韓国の高校教育で、日本も日本人も悪いと教えられて来ました。しかし、ある時、母が日本人であると分ったのです。でも、私の母は、自分の憧れの女性であり、自分も母のような女性になりたいと思い願っていたことには変わりありませんでした。そして、私が20歳の頃、私は母と家族で日本に移住しました。このように私が日本に来たのは、神のご計画によって、私がクリスチャンになって、日本を愛し、日本人の救いのために、音楽伝道の働きに導かれた事を覚えます。
そのように、智恵子先生が願い求めている「日本人の救いのために音楽伝道をする」という使命を示す歌として、「もう一つの実を」(作曲・作詞: ソル・キョンウク; 日本語訳: 中村裕二、智恵子)が選ばれました。直ちに、その歌は智恵子先生によって歌われ、「私も、主イエス・にキリストの愛でもっと仕え、その愛を伝え、主が選ばれたこの地に植えられたもう一つの実」である日本人の魂の救いに希望をもち」、主が高らかに賛美され、祈りつつ、感謝が捧げられました。
続いて、中村裕二牧師先生は、先ず、リビング・プレイズの「神の国と神の義」を、ウクレレで演奏しながら、賛美した後、本日の聖書箇所のみことばに基づき、次のようなメッセージを取り次いで下さいました: 本日の聖書箇所の「マタイによる福音書6章33節」(口語訳聖書)では、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」と記されており、続く「34節A」には、「だから、あすのことを思いわずらうな。」とい記されています。この「思いわずらう」とか「思いわずらうな」という言葉は、「25節ー34節」に7回も出て来ます。この「思いわずらう」という言葉は、「新改訳聖書」では、「心配する」という言葉になっていますが、同じことです。私は、音楽学校で、智恵子と知り合いになりましたが、その後、智恵子は米国ボストンで2年間留学し、帰国後、私と結婚し、その2年後に息子、匡が生まれ、幸いな家庭となりました。しかし、智恵子は子育てで大変になったので、教会に行って育児書なども読むようになりました。智恵子は、教会から帰ってから、私に、教会でのメッセージなどを話してくれました。私は、以前は教会学校に通っていたこともありましたが、その後は教会から離れており、20歳代になった頃の自分としては、神とは関係がなくなっていました。智恵子は、私も一緒に教会に行く事を願っていましたが、私はそれを拒否しました。しかし智恵子だけで教会に行ってから数ヶ月で、「神の国と関係があるイエス・キリストを信じて、今生きて行く」ということを決心し、洗礼を受けたのです。それは1984年のことでした。一方、当時の私は自分の力で、仕事や音楽のベーシストの働きに頑張って、忙しく過ごし、心配があり、思い煩っていました。しかし、智恵子は、息子の子育てでも、神が居て下さるから大丈夫だと言い、心配していませんでした。そのうちに、私は、智恵子から、「教会に一緒に行かないか」と言われないと、気になるようになりました。そして、智恵子が幼い息子を連れて教会まで歩いて行くのではなく、自分が、智恵子と息子の匡を教会に送るようになり、それから、不思議にも、休まずに教会に出席するようになり、聖書のみことばも少しずつ解って来ました。それと共に、私も、心配なく、思いわずらうことなく、生きていけるようになり、1985年に洗礼を受けました。これは、正しく、私の視点が変えられた事でした。それは、「マタイによる福音書6章19-21節」に示されているように、「天に宝をたくわえる」ということに気付かされたのです。また、その次の「22節」には、「神だけを見つめていけば、心身が明るくなって、宝を天に蓄えることになり、それが、救いの出発点となる」ということも示されています。私達は、「神の国と神の義」を求めて見て行くと、問題が解決され、問題ではなくなます。神を信じて生きることによって、恵みが与えられます。「まず神の国と神の義を求める。」ということが大切です。
以上のようなメッセージの結びのようにして、中村裕二牧師は、智恵子先生が、「いのち」(作曲: 中村匡; 作詞: 中村裕二)を歌うようにお願いしました。智恵子先生は、その歌を声高らかに歌い、「波にただよい、苦しみのある椰子の実のような我でも、苦しみを主にすべてを委ねれば、救われて、永遠の命に生かされる」という事が強調されました。アーメン!ハレルヤ!!
2008年7月20日(日)聖日礼拝で、中島光成牧師が、「マタイによる福音書5章27-37節」に基づき、「本当のことを言う」と題し、次のようなメッセージを取次いで下さいました。
今日の聖書箇所に示される、姦淫や離婚の問題などは、難しくて複雑な問題です。そんな問題があった時、お互いに一言や一回だけの話で判断しないで、お互いの対話が必要です。お互いに時間をかけて、本当のことを語り合いながら、神から言われることに、聴き従っていくことが大切です。では、これから、「本当のことを言う」ということについて、3つの部分にわけてお話ししましょう:
(1) 罪人に対するイエスさまの基本姿勢:: 「ヨハネによる福音書8章2-11節」には、律法学者とパリサイ人が、イエスさまを試すために、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、「姦淫をした女は、モーセの律法によれは石打ちにされることになっていますが、あなたは、どうしますか」と質問したことが、記されています(1-6節)。その質問に対して、イエスさまは、「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。年長者達から、一人一人出て行き、イエスさまだけが残ったことが記されています。そして、罪もけがれもない唯一の神が人なって下さったイエスさまは、「わたしもあなたを罪に定めない。」と宣言され、「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。ここに、「罪人に対するイエスさまの基本姿勢」を見ることができます。
(2) 姦淫、離婚、誓いに関する変革のイニシアチブ: 先月15日の聖日礼拝で、「山上の説教」が、14個の教えで構成され、それぞれの教えが、「@ 伝統的な義」、「A 悪循環」、「B 変革のイニシアチブ」という、「三重構造」になっていることをお話ししました。今日は、山上の説教第2の「姦淫」、第3の「離婚」、第4の「誓い」という教えについて見ることができます:
(姦淫):
(@ 伝統的な義): それは、十戒で示されるように、「姦淫を犯してはならない。」ということです。
(A: 悪循環): しかし姦淫をしなくても、サタンの誘惑によって、みだらな思いを持って見るのは、姦淫と同じです。
(B 変革のイニシアチブ): 誘惑の原因を取り除くことです。又そのことは、「マルコによる福音書9章43−50節」に、厳しい表現(「つまずきとなるような手や足を切捨て、躓きを引き起こす目をえぐり出しなさい」という表現)で、示されています。
(離婚):
(@ 伝統的な義): 律法では、「離婚する者は、夫から妻に離婚状を渡しなさい。」というように示されています。
(A 悪循環): 離婚は姦淫の道に引き込まれることになりかねません。
(B 変革のイニシアチブ): この変革は、続けて関連付けるようには記されていません。でもマタイは、「マタイによる福音書19章3−9節」に、イエスさまは、「創造者である神が、初めから人を男と女に造り、夫婦は、一心同体であり、神の前では、一つであって、決して分かれてはいけない」と言われたことを記しています。また、「コリント人への手紙第一7章10−11節」には、「結婚した夫婦は、離婚してはいけない、仲たがいしても和解に努めなさい」ということが示されています。
(誓い):
(@ 伝統的な義): それは、「偽りの誓い立ててはならない。」ということです。
(A 悪循環): それは、「何にかけて誓っても、誤った主張にあなたを引き込むことになる」ということです。
(B 変革のイニシアチブ): それは「いつも本当のことを、正直に話すようにしなさい。」ということです。日本人は、とかく曖昧に、ごまかしてしまい勝ちですが、愛をもって、正直に話すことは関係の回復をもたらします。
(3) 本当のことを言う為に: 私達クリスチャンは、イエスさまの十字架によって、罪が赦され、罪から解放され、新しい生き方に導かれています。そして、日常生活で、本当のことを言う為には、「お互いが、心の深いところの意思表示をし合いながら、感情も本人同士で分かち合っていく」ということです。それによって、お互いの本当の関係が造られていくのです。その為には又、お互いに、神の前にへりくだって、ひざまずく礼拝が大切です。礼拝は気軽に来るところではありません。心して、真剣に、期待をしてくるところです。
結び: = = メッセージに応答して、聖歌#476(やすけさは川のごとく)を、会衆一同で歌い、主を崇め、賛美しました。 = = 礼拝の中でイエスさまの罪の赦しの宣言を聞き続け、お互いに神との関係、人との関係が回復し続けるよう祈りましょう。
2008年7月27日(日)聖日礼拝で、マックルアー・マーク先生が、「ヘブル人への手紙5章7−14節」から、「The Practice of Maturity (成熟への訓練)」と題して、次のようにメッセージを取り次いで下さいました:
去る5月末と6月末の2回の礼拝メッセージでは、赤ちゃんが母乳を毎日飲むように、私達も神のみことばを毎日飲むことの大切さを話しました。今日は、神のみことばとして、肉のように堅い食物は何かについて話します。
霊的食物で、堅いものとは、善悪を区別出来る人の食事です。人は、霊的に難しい事に直面すると、霊的に成長はしたくないと思ってしまい勝ちです。しかし、霊的に難しい事でも、神の知恵に頼りきって、その霊的困難な事に一歩踏み入れるのです。多くの人は、自分をつまらない者と思い、不器用で、知的にも不器用であると感じているようです。そして、そんな人達に対して、ちまたで流れているメッセージに影響されると、「神が望んでおられるように、自分はこのままでよいと安心し、大丈夫だと思い、何か心にあっても、そんな自分でも神は自分を愛して下さっているので、大丈夫と思っています。神は、確かに大丈夫と感じてほしいと思っておられますが、それが達せられる真実な道は一つしかありません。それは、自分の罪を告白し、神の赦しを求め、罪から解放されて自由の身となり、新しく生まれ変わり、すべての痛みからも解放され、神の元に帰り、キリストの血と恵みによって造り変えられるという事です。そのような新生によって、自分の中にある善悪と取り組むことが出来るようになるのです。
ところで、霊的に堅い食物は、何処にあるでしょうか?そのような難しい霊的問題が解る人は、牧師とか、長い間に亘って神学教育を受けた人であるというように、思い違いをしがちです。でもイエスさまが選んだ弟子達は、高い教育を受けた者達ではなく、宗教家達でもなく、むしろ教育程度の低い者達70人を選び、福音伝道に派遣し、悪霊を追い出したことも聖書に記されています。本日の聖書箇所には、初代教会において、イエス・キリストを主と仰ぐ弟子達が、永遠の神の国を生きる者として、生きていくように導いています。現代の教会でも、霊的に堅い肉と言われるような課題は沢山ありますが、その中で、先ず、「祈り」と「礼拝」が挙げられます。「祈り」においては、自分の神との関係や、家族や世界などとの関係が構成されており、「祈り」こそが、神の力、愛、恵みを通す管となっているのです。又、「礼拝」でも、神に祈りを捧げ、神を賛美し、崇め、神の臨在に感謝し、神のみことばを戴くということが本質的な事です。では、次に、「祈り」と礼拝」の他に、私達が難しいと思う霊的分野などを、大きく3つに分けて挙げてみましょう:
(1)癒し、悪霊の追い出し、御心を求める、預言、仕える、奇跡、教えること、異言、などです;
(2)「御霊の実」と呼ばれる、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制」などです;
(3)結婚、育児を含めた教育、家計、政治、戦争、経済、科学技術、自然環境問題、世界的問題などです。
= = この後、3−5名ずつのスモール・グループに分れて、約10分間の分かち合いの時を持ちました、そこで、「コリント人への手紙第一12章7−11節」(各自に与えられた賜物)、「コリント人への手紙第一12章27−30節」(キリストの体にあって、一人一人は、その各器官)を輪読し、「自分達が、それぞれ、難しいと思う霊的分野を、上記の(1)、(2)、(3)から選んで発表し」、分かち合いました。終わりに、マーク先生を通して、次のような纏めのメッセージを戴きました:
「コリント人への手紙第一13章」に示されるように、私達は、互いに愛し合い、私達がそれぞれに、神から与えられた霊の賜物を用いて、霊的な課題を解決していく事が大切です。「神は愛です」。「コリント人への手紙第一13章13節」に示されているように、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」そのように、「信仰」も「希望」も必要ですが、「愛」は、その中での焦点となっおり、「信仰」と「希望」に方向性を与えるものです。私達の信仰の歩みでの神との関係、教会との関係、家族との関係、世界との関係などにおいて、「信仰と希望と愛」が大事であることを、良く噛み締め、「へりくだって」、自分の生活の中にある善悪を良く区別し、世界の中に「信仰と希望と愛」を展開していき、神から期待される働きを続け、キリストにある喜びの生活を続ける希望を持っていきましょう。NOL>
NCJCC通信員