2008年6月1日(日)聖日礼拝で中島光成牧師が、「マタイの福音書5章3節〜12節」から「神の国を生きる」と題して、次のようにメッセージを取り次いで下さいました:
聖書の中でもよく知られている、主イエスが語られた「山上の垂訓」は、 私達が、教会との関わり、毎日の生活を豊かにしていく上でも大切です。 しかし知られているほどに、その意味することが正しく理解されているでしょうか? 又、どれだけ理解して、それにそって生きようとしているのでしょうか?山上の垂訓全体をひとつのメッセージとして、次に3つのテーマで話します。
@ この世と神の国(マタイ5:3,10): イエス様は「神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」といわれています。では、どのような人が神の国に生きる人といわれているのでしょうか? 心の貧しい人、義のために迫害されてる人は、神の国を生きる幸いな者だと、聖書は示しています。しかしこの世の中では、貧しい人は可愛そうで軽蔑されるべき人、迫害される人は不幸な人だと言われます。イエス様は反対の事を言われました。 この世と神の国の違いを見るような気がします。 私達は自分の想いが実現したら幸せだと考えます。 よって世の中にはいかに楽をしてお金を貯めるか、いかに綺麗に着飾るか、いかに楽しく気楽に生きるかなど、個人主義、自己中心主義の考えが蔓延っています。そのような一時的な楽しさを追求したり、頼りにならない価値観を信じる考えは滅びに至ると聖書は警告します。 そういうこの世にあって、神の国に生きるということは、イエス様に頼り、自分の心の貧しさを知り、人に何が必要なのかを考え、その足りなさを悲しみながら、人とのつながりを大切にして行く事だと、言葉を重ねます。 そういう生き方をしていくことは、この世では迫害を受けることになるだろうと言われます。 しかしそれこそが喜ぶべきことで、幸いなこと、躍り上がるべき事だとイエス様は言っています。 なぜならこの世のお金、表面的な楽しさはあぶくのように消え、頼りにならないと、聖書は示しているからです。 神様との豊かな関係を築いていくことは、何にも変えられない価値のあるものです。 神の国を生きる事を身を持って示して下さったのはイエス様です。 与えられたこの世の歩みを、聖霊の助けによってどう生きていくのか?を考えていくのが重要なポイントとなります。
Aイエス様の説教の前提を踏まえて:
a.聖霊による神の臨在 (Tコリント12:3、ヨハネ12:24、マタイ10:39):
聖霊によらなければ誰もイエスを主であるとは言えません。 クリスチャンは自分中心ではなく、イエス様中心で生きているので、それでは主体性がないのではないか?生きがいがないのではないか?と言われることがあります。 はたしてイエスを主として人生を生き抜いたマザー・テレサやマーチン・ルーサー・キングはどうだったのでしょう? 主体性、生きがい共に充分だったのではないでしょうか。貧困、病に苦しみ、無視され続けていた人達に祈り続け、福音を伝えてきたマザー・テレサは、まさに神様に自分の命を捧げた人生でした。イエス様の前で自分の貧しさ、弱さを認め、イエス様を主として歩む時に、人は聖霊によって変えられて行きます。 それには神の臨在が必要なのです。
b.神の義による解放(Uコリント5:21):
神の義とは善悪を裁く義ではなく、心の貧しいものが持つ義であります。 心の貧しい人は自分の無力さ、むなしさを知っています。 自分が、人生の主になりえない者と信じ、自分では誰をも裁けない者と知った者の義です。 イエス様が十字架にかかって死に、よみがえったと信じる者の義です。 そして自らを罪人と認め、主の前で告白し、罪から解放される義なのです。
c.旧約聖書の成就:
「イザヤ書61章」と「マタイ5章」を比べるとほぼ同じ内容となっています。 「ルカ4:16〜21」に記されるように、「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」とイエスは話されました。 マタイもルカも、イエス様が宣教の初めに、「イザヤ書61章」の成就は、神の国の出現であると宣言されたことを、福音書に記しています。御言葉に命があり、その御言葉は、イエスが主イエスキリストであるということを証ししています。
Bイエスと共に(マタイ5:11〜12、ヨハネ14:27): 「マタイ5章11節」でイエス様は「私のために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言をいわれたりするとき、あなたがたは幸いです。」と話されました。 イエス様に従って共に生きていく時、この世の生き方とは違うので悪口を言われたり、あざけり、差別など受けることがあるといわれます。 滅び行くこの世からの迫害や悪口は神の国を生きるものにとって、喜びの源にもなりうるということです。 しかしイエス様から与えられる平安はこの世が与える平安とは違います。 この世の豊かさや、喜びは、いずれ消えて行きます。 全てをイエス様に委ねることによって、真の喜びと満足、揺るがされない平安が与えられるのです。
結び: この世にあって神の国を生きることは、困難も多いが、祝福は比べ物にならないくらい大きいのです。主イエスと共に生きることが、神の国を生きることです。
2008年6月8日(日)聖日礼拝では、「キッヅ・クワイヤー」が、「イエスさまの夢で覚めた日は」という歌を歌い、手振りや足踏みをしながら、愛する主イエス・キリストを賛美しました。続いて、中島光成牧師が、「マタイによる福音書6章9節〜13節」のみことばに基づき、「目次としての主の祈り」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
本日の礼拝では、「主の祈り」の中にあるそれぞれの祈りが、「山上の説教」のそれぞれの目次のようにとなっていることに目を留めましょう。そして先ず、「(1)山上の説教の目次としての主の祈り」についてお話しし、続いて、「(2) 軽々しく祈れない主の祈り」について、お話しします。
(1)山上の説教の目次としての主の祈り:
(1ー@) 「主の祈り: 天にまします我らの父よ。ねがわくは御名を崇めさせたまえ。」という部分は、「マタイによる福音書5章1〜2節」に示される、「イエスさまが山上で話される。」という事が対応しています。これは又、モーセがシナイ山で神の名を告げられ、後に神の名を畏れる様にという戒めも受けたこととも関係があります。
(1−A) 「主の祈り: 御国を来たらせたまえ。」という祈りは、「マタイによる福音書5章3〜16節」に 示される、「山上の垂訓、即ち、神の国に生きる者の幸い」という事と対応しています。
(1−B) 「主の祈り: 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という祈りは、「マタイによる福音書5章17〜48節」に示される、「神の御こころ(勝利の義、律法の真髄)について、6つのパターン」と対応しています。
(1−C) 「主の祈り: 我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」という祈りは、「マタイによる福音書6章19〜34節」に示される、「財産、食べ物、飲み物、着物のことで心配しなくてよい」という事と対応しています。
(1―D) 「主の祈り: 我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」という祈りは、「マタイによる福音書7章1〜5節」に示される、「裁いてはいけない。自分の目から梁を除け。」という事と対応しています。
(1−E)「主の祈り: 我らを試みにあわせず、」という祈りは、「マタイによる福音書7章6〜12節」に示される、「この世に信頼をおくのでなく、神を信頼せよ。」という事と対応しています。
(1−F) 「主の祈り: 悪より救い出したまえ。」という祈りは、「マタイによる福音書7章13〜27節」に示される、「偽預言者に気をつけよ。」という事と対応しています。
(1−G) 「主の祈り: 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」という祈りは、「マタイによる福音書7章28〜29節」に示される、「イエスさまの権威、権力、栄光」という事とが対応しています。
(2) 「軽々しく祈れない主の祈り」: 「主の祈り」の最初にある「天にまします我らの父よ。」という祈りだけでも、1冊の本が書けるように思われます。そして、その「我ら」とは、「全ての人と共に、被造物全体だけではなく、私達に、我らの父と言わしめる中心となっておられるイエス・キリストも共におられる"我ら"」という意味です。神と人とを和解させて下さるイエス・キリストと声を合わせて祈れば、父なる神と愛で結ばれます。イエスさまは、十字架上で最初に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているいか自分でわからないのです。」と言われ、最後に、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言われました。このように、イエスさまが十字架上で「父」と言われた事は、父なる神が一人子なるイエス・キリストを十字架につけたという厳しさを受け入れると共に、愛の関係も示されています。また、「主の祈り」の「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」ということは、「マタイによる福音書5章44節」に示されるように、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということが、私達の現実となるように、本当に、心から祈る事が大切です。
結び: 主の祈りを聖霊の助けによって祈る時、山上の説教の内容である神の国を生きる者へと変えられます。
2008年6月15日聖日礼拝では、中島光成牧師が、「マタイによる福音書5章13-26節」に基づき、「変革のイニシアチブ」と題し、メッセージを取次いで下さいました。
去る5月18日の礼拝から、「イエスさまの山上の説教」について味わって来ています。最初先ず、「イエスさまの説教の前提」: (@ 聖霊としての神の臨在; A 解放をもたらす神の義; B 旧約聖書の成就としてのイエス・キリスト)について、二番目に、「神の国を生きる」: (@ この世と神の国; A イエスさまの説教の前提を踏まえて; B イエスさまと共に)という事について、第三番目に、「目次としての主の祈り」: (@ 山上の説教の目次としての主の祈り; A軽々しく祈れない主の祈り)という事についてお話して来ました。今日はその最後として、イエスさまの説教を全体的に纏め、3つに分けて次のようにお話しします:
(1) 変革のイニシアチブ: (1) イエスさまは弟子達に、第一に「地の塩」のようになって、周りの人々に塩気を出すように、キリストの証し人として役立つ者になる事を励ましておられます。また第二に「世の光」のように、キリストにあって、目だった者として、堂々と歩んで行き、社会一般の人と違う歩みをする事を強調しています。イエスさまの弟子のペテロは、イエスさまが十字架に架けられる時、「イエスを知らない」と3度も否定しましたが、復活のイエス・キリストに出会って、愛の呼びかけと宣教命令を受けて変えられ、更に聖霊に満たされ、忠実で大胆なキリストの証し人となったのです。更に、第三に「律法を本当に守るように心に捉えて生きて行く」という事を強調しています。そのような教えによって、教会が建て挙げられ、更に、学校や、ホスピスや病院などが始まった基盤は、教会にありました。「石井のお父さん」という映画にも示されているように、日本の明治時代の大学生で、クリスチャンであった石井十次は、千数百人の孤児の世話をし、周りの人々に、地の塩、世の光として、キリストの証し人となりました。更に、「マタイによる福音書5章21節から7章」には、「変革のイニシアチブ」として、律法の成就が示されています。
(2) 和解の勧め: 「伝統的な義」としては、「殺してはならない」という事が示されています。しかしサタンの誘惑によって、「怒りをもち続ける」という「悪循環」が繰り返されています。ところが、イエス・キリストを心に迎え入れて、しっかりとした信仰に立ち、イエス・キリストを中心に置いて、イエスさまが言われた教えに聴き従った時、「仲直りしなさい」という「和解の命令」が示され、そのみことばが、「変革のイニシアチブ」となって行くのです。以上のように、「イエスさまの山上の説教」の中で、「マタイによる福音書5章21節から7章」には、@ 「伝統的な義」と、A 「悪循環」と、B 「変革のイニシアチブ」という、「三重構造」が、それぞれ14個ずつ展開されています。そして、その三重構造のそれぞれの表現が、ギリシャ語では、上記の@は「未来形」又は「仮定形」で書かれ、Aは「直接法」又は「分詞形」で書かれ、Bはすべて「命令形」で書かれています。
(3) イエスさまの山上の説教とイエス・キリストの系図: イエスさまの山上の説教は、上記のように、三重構造の教えが、それぞれ14個ずつ記されています。一方、「マタイによる福音書1章17節」に記されているように、「キリストの系図」は、「アブラハムからダビテまでの14代、ダビテからバビロン移住までが14代、バビロン移住からキリストまでが14代」として記されており、14代が3回繋がっています。そのような、「14」という数字は、完全数といわれる「7」の「2倍」であり、それが、3回も繋がっている系図は、完璧な血統書であり、信頼のおける系図であることが暗示されています。イエスさまの山上の説教の「三重構造」によるそれぞれの14個の教えも、14個の「伝統的な義」と14個の「悪循環」と14個の「変革とイニシアチブ」という事で展開されており、キリストの系図で、14代が3回続いているという事と、一致しているように見えて来ます。そして、イエスさまの山上の説教は、正に、私達が、聖霊の招きを受けて、救いの道に入れられ、神の国に参加するようにと、呼び掛けておられることが示されて来ます。「ヨハネによる福音書13章34節」にも、イエスさまが示された新しい戒めとして、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じています。イエスさまの山上の説教は、私達が互いに赦し合い、和解し合って行き、本当の平安と感謝を言い表して行くという、新しい時代の内容を、一貫して、具体的に示しています。(但し、「山上の説教」に詳細に示される、三重構造による、それぞれ14個ずつの教えを、一覧表に纏めた情報は、ここでは省略します。)
結び: 山上の説教は、聖霊によって信じて受け止めていく時、この世にあってそのように生きさせて戴ける、神の国のメッセージであります。
2008年6月22日(日)聖日礼拝で、中島光成牧師が、「詩篇139編23−24節」に基づき、「信頼に基づく従い」と題し、次のようなメッセージを取次いで下さいました。
本日の礼拝後に開かれる教会総会では、ノースカウンテイ・キリスト教会として、去る5月までの過去1年間の歩みがどうであったか、又、この6月から今後1年間の歩みがどのようであるかについて、発表され、審議され、採決されます。そこで先ず本日の聖書箇所から、過去1年は、何に信頼を置き、何に従ったか、又これからの1年は、何に信頼を置き、何に従うのかについて考え、次のように、大きく2つの事をお話しします:
(1) 三重の信頼: (1−a)神様が全てを正しく知ってくださる: 本日の聖書箇所には、詩人が、神様にお願いして、自分を調べて、心や思い煩いを知ってくださり、傷のついた道も調べ、永遠の道に導いてくださるようにという、心からの詩が歌われています。これはダビデの晩年の詩であろうと思われます。ダビデには、痛い思い出がありました。それはダビデが王権を確立し、部下が戦いに出陣している時に、自分は王宮で安楽を求め、戦場にいる兵士の妻と姦淫の罪を犯し、更に、ダビデは策略によって、その夫を戦場で戦死させるという罪も犯しました。これらの罪には、人の目には隠せても、神様の目から隠されているものはありません。ダビデはその後、預言者ナタンによって、自分の犯した罪が指摘され、直ちに神の前で、自分の罪を悔い改め、神に立ち返る信仰が回復されたのです。そして、ダビデは、「詩篇139編1-6節」に記されているように、「神様が全てを正しく知ってくださる」ということを歌いました。 (1−b)神様が傷を癒してくださる: 私達は、心や体の痛みがあっても、それを隠すことがあります。その痛みを自覚すると傷がつくので、隠してしまいがちです。しかし、私達の造り主であられる神様は、私達の体も霊も心も造ってくださったお方で、神様が私たちを創って下さったということが、「詩篇139編24節、13節ー16A節」に歌われています。私達は、造り主である神様に信頼し、傷ついたところを見ていただき、癒していただきましょう。 (1−c)神様が永遠の世界の主: 神様は、人に永遠の思いを与えてくださるお方です。神様は、空間的にも、倫理的にも、また時間的にも、永遠の世界の主であることが、「詩篇139編24節、7-10節、16B-18節」に、示されています。私達は、永遠の主である神様に信頼していきましょう。 (2) 信頼に基づく従い: 私達が神に信頼しているということが、自分達の行動に表わされないのなら、それでは神様に信頼していることにはなりません。神様は、私達の心を含めて全てをご存知です。旧約聖書に記されているサウルとダビデは、神様への信頼に基づき従うという点において対照的です。 (2−a)サウル: サウルは、神の選びによってイスラエルの王となり、口先では神様に聴き従うようなことを言いましたが、行動では、それとは違い、神様に逆らった不信の罪のために死んで、王位はエッサイの子ダビデに回されたということが、「歴代誌第一10章13-14節」に記されています。 (2−b)ダビデ: ダビデは、「神様の命令を守り、心を尽くして神様に従い、ただ、神様の見る目にかなったことだけを行った」ということが、「列王記第一14章8B節」に記されています。このダビデの生涯を一言で表した言葉は、誇張のようですが、天国における主に信頼したものが受ける言葉の雛形として理解できるでしょう。また、「詩篇139編7節」には、ダビデは、「御霊から離れては、どこにも行けず、神様の御前を離れて、どこにも逃れられない」と神様がいつでもどこでも共におられるという信仰を歌っています。
結び: 神様は、全てを正しく知り、私達の思い煩い、心の傷を知っていてくださり、癒し、永遠に導くことのできるお方です。そのお方に、私達は行動を持って信頼を表わし、従っていきましょう。そして私達は、イエス様に信頼を置くお互いとして、教会に集い続けましょう。
2008年6月29日(日)聖日礼拝で、マックルアー・マーク先生が、「ペテロの手紙第一2章2-5節」から、「Milk, Meat or Soda(ミルク、肉、それともソーダ)」と題して、次のようにメッセージを取り次いで下さいました:
乳幼児が、母乳を飲んでいれば、栄養たけでなく免疫も強くなり、病気からも守られます。それに対して、人工の粉ミルクで育てられた乳幼児は、栄養も免疫力も不十分で、幼児死亡率が高くなっています。私達が、霊の乳といわれる、純粋なみことばという乳を飲んでいくということには、次のような3つのことがあります: @ イエス・キリストの赦しと恵みという愛の深みを飲むこと; A イエス・キリストを信じ、イエス・キリストのみことばに聴き従い、霊なる祭司として造り上げられていくこと; B 私達が、霊の捧げものとして、自分自身をキリストに捧げ、イエス・キリストの福音を、周りの人々に伝えていく、という3つです。このように、私達は、霊のみことばという乳を戴くことによって、日々、造り変えられていき、キリストを信じる信仰と愛にあって、きよめられ、希望のある霊的成長を遂げていくのです。
でも私達は、この世にあってどうしても、肉の人となってしまい、自己中心的となり、人をさばき易くなり勝ちです。ですから、私達は、自分の自我に死んで、キリストを見上げ、愛をもって、自分をキリストに捧げ、自己中心的な生き方を捨て去っていきましょう。「コリント人への手紙第一3章2-3節」に示されるように、パウロの時代のコリントの教会では、キリストを信じてはいるが、肉に属する人と見做される人、即ち、この世のことに捕らわれ、まだ霊のみことばに未熟な人で、キリストにある幼子と見做される人が多くいたようです。パウロは、そのように、まだ信仰が成長していない未熟な、幼子のような信者には、堅い食べ物のようなみことばではなく、福音の純粋な乳といわれる霊のみことばを与えていったのです。
私達の霊の家の土台は、イエス・キリストです。家は土台に沿って建てられるべきものですが、そのの家が、自己中心的な土台の上に建てられた場合には、やがて崩壊されます。また、貧しい家に住む母親が、子供に、ミルクの代わりに、安い炭酸ソーダ水を飲ませてばかりいれば、栄養不良になってしまいます。そのように、私達が、イエス・キリストのみことばを示す霊的な乳の代わりに、代用飲料を飲むように、嘘やごまかしで満ちている生活をしていけば、いずれは霊的にも栄養不良に陥ります。私達は、そのような炭酸飲料だけを飲んで過ごすというような、自分中心的な生き方をして、栄養不良的な信仰者となることがないように気をつけましょう。そして、日々、謙遜になって、きよめられつつ、神と人とに仕えていきましょう。
= = この後、2−3名ずつのスモール・グループに分れて、約10分間の分かち合いの時を持ちました、そこで、「ヨハネによる福音書15章7節、17-19節」(キリストに選び出された者は、キリストとのみことばに留まり、互いに愛し合う)、「コリント人への手紙第一3章18-20節」(知者になるためには愚かになれ)、「ローマ人への手紙12章1−3節」(自分のからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げ、慎み深い考え方をする)、「ペテロの手紙第二1章3-4節」(キリストを知って、神のご性質にあずかるものとなる)等、みことばを輪読した後、「この世にあって困難を感じる分野」や、「世の影響と戦いつつ、キリストの性質において成長することに力を注げるか」などについて分かち合い、終わりに、マーク先生を通して、次のような纏めのメッセージを戴きました:
「コリント人への手紙第二10章2-6節」に示されるように、私達は、キリストを信じる信仰に堅く立って、みことばに聴き従い、信仰が成長していき、成熟していくように、励んでいき、福音を多くの人々に伝えていきましょう。私が、皆さんに強くお勧めしたいことは、神のみことばである聖書を毎日読み、また、毎日、祈り合っていくということです。そして、皆さんの周りの方々が、キリストの愛の中に生き、互いに愛し合い、キリストを信じる信仰に導かれるよう、祈りましょう。また、「テトスへの手紙2章11-14節」に示されるように、日々、きょめられていきましょう。NOL>
NCJCC通信員