2008年1月1日(火)元旦午前11時から、光岡宅での礼拝に15名が集まり、続いて正午からのお雑煮会に大人20名と子供3名が集まり、分かち合いの時を持ちました。その礼拝では、中島光成先生に導かれて、先ず、会衆一同で聖歌#359「たたえよ、神を」を歌って、神を崇め、「詩篇96編」を交読して救い主を讃えました。また前日大晦日の午後10時半から中島先生宅で、約2時間に亘る「越年祈祷会」の中で歌った、聖歌#361「にいどしのあさ」の「1番」に続き、元旦当日では、その「2番と3番」を歌って、元旦から始まった私達の2008年の歩みも、栄光の主を仰ぎつつ、主の恵みを戴いて行く、信仰と希望の道を感謝しました。その後、中島光成先生は、「マタイによる福音書4章12-22節」から、特に「神の時と神の場所」を強調して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所の「12節」には、「イエスさまの親戚であり、先輩であり、同労者であったバプテスマのヨハネが捕らえられた時、ガリラヤへ立ちのかれた」という事が記され、ここに、「時と場所」が示されています。その時、イエスさまは、地上での人生の中で、大事な宣教と弟子選びを開始される時が今であり、その場所がガリラヤであることが、神から囁かれた召命として示されたのでしょう。それはイエスさまが30歳頃でした。その頃、「17節」に記されているように、イエスさまは宣教を開始して、「悔い改めなさい。御国が近づいたから。」と言われたのです。それまでの30年間は、宣教はしませんでしたが、人々の人生について、また、滅びる人について知る期間であったのでしょう。
「18−20節」には、イエスさまが、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、ペテロとアンデレに出会いました。イエスさまは、聖霊との交わりの中で、「神の時と神の場所」を知って行動されており、そこで出会ったペテロとアンデレに「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう。」ということを告げました。ペテロとアンデレも、その時、その場所が、「神の時と神の場所」であると示され、直ちにイエス様に従い、イエスさまと同じ歩みを始めたのです。私達も、神が一人一人に用意されている「神の時と神の場所」が、はっきりと示されるように、神からの声を聴くという感覚を育てて行きましょう。
続いて、「21−22節」にも、ヤコブとヨハネが、イエスさまからの呼びかけに応じて、直ちにイエスさまに従って、弟子となる歩みを始めました。それは正に、ヤコブもヨハネ達と同じように、「神の時と神の場所」を知って生きていた証拠で、神の御業がその二人にも働いたのです。
私達も、主イエス・キリストを信じる信仰によって、内側から変えられ、日々新しくなり、聖霊によってきよめられ、神から示される「神の時と神の場所」をはっきりと聴き分けて受け止め、神の御心と御計画に聴き従って行き、神の御業がなされて行くように祈って行きましょう。
2008年1月6日(日)聖日礼拝では、OMS教団巡回伝道師の中野雄一郎師が、当教会に来て下さり、「イザヤ書40章28―31節」から、「心の翼よ、あがれ」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所の「31節」には、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができる。」と記されています。このみことばは、私達が、心の翼を大きく広げて、上って行く人生を示しています。今年の2008年の「8」を漢字では「八」と書き、末広がりの字です。私達は、神の前で、心の翼を大きく広げて、希望をもって、新しい力を得て、上って行きましょう。飛行機が上る時には、逆風に向かって上るのです。私達の人生も、逆風という試練の中で、鍛えられ、成長して行くのです。私達はいつも聖書に示されている約束を、自分の心の内側にしっかりと持って、試練の中にあっても、神を愛し人を愛しつつ、日々きよめられ、イエス・キリストを信じる信仰が成長して行く事が大切です。
「I: 愛」: そのような信仰の成長には、先ず第一に、夫婦が仲良く愛し合って、きよめられ、成長して行くことが必要です。私は、「天声妻語」という本を書いて出版しました。その本に記されているように、私は、妻の声を通して神の声を聴きながら、私の人々との出会いが、その人々の救いへの導きとなったことを感謝し、喜んでいます。また、ある米国の夫婦が書いた本で、「女性が夫に求める10か条; 男性が妻に求める10か条」が記されています。次に、その中から、それぞれ3か条ずつを選んで紹介します: 「I-A」: 「女性が夫に求める10か条の中の3か条」: 「I―A―@」: 愛情を優しく表現して欲しい事。 「I−A−A」: 誠実で、率直であって、嘘はつかぬ事。 「I−A−B」: 経済的に安定させて欲しい事。「I−B」: 「男性が妻に求める10か条の中の3か条」: 「I―B−@」: 性的安定を与えて欲しい事。 「I−B−A」: 女性は魅力的であって欲しい事。 「I−B−B」: 褒めて欲しい事。 = = 以上のような愛し合う夫婦関係は、弱った者であった時でも、新たな力が与えられ、鷲のように翼を広げて上るようになるのです。= =
「II: 希望」: また、上記の米国夫婦の出版本の中に、「ボケ防止10か条」が次のように記されています: 「II−@」: くよくよ考えない事。 「II−A」: 物事のプラス面を見る事。 「II-B」: 楽しみを持つ事。 「II−C」: 役割に期待を持つ事。 「II−D」: 勉強する事。 「II−E」: 人との交わりを大切にする事。 「II−F」: ちょっと頑張ってみる事。 「II−G」: 体を守る事。 「II−H」: 歯を守る事。 {II−I}: 病気に気をつける事。
「III: 信仰」: イザヤ書39章までは、旧約聖書のように、人の罪に対する神の裁きが預言され、40章から終わりの66章までは、新約聖書のように、神による慰めと救いが強調されており、53章は特に、イエス・キリストの十字架の死と、霊的経験が預言されており、神は私達がいないと死ぬ位に愛していることも示されています。「申命記6章4−6節」に命じられているように、私達も、唯一の神である主を信じ、主のみことばに聴き従い、全身全霊で愛し、主を待ち望み、力を得て、心の翼をはって、上って行きましょう。
2008年1月13(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「列王記 第一17章8−16節」から、「尽きない神の供給」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
人間的なエネルギーや力には限界があり、尽きてしまい、世界の資源や自然界の仕組みにも限界があります。しかし、私たちは、尽きることがないお方である神の尽きない助けと力、尽きない必要の満たしに目をとめましょう。
本日の聖書箇所に示される物語りの背景を見ると、イスラエルが南北に分裂した後、北王国のアハブ王という最悪王(16章30節参照; バール偶像崇拝のイゼベルを妻に迎えて、自分も偶像礼拝に陥り、本当の神を信じる者を迫害し、殺害した最悪王)の時代に、預言者エリヤは、サマリヤにいるアハブ王に、3年間の飢饉を予告しますと、神の導きによって身の危険を覚え、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとり(ヤベシュ・ギルアデ)に暫く身を隠しました。すると神が約束された通りに、烏が朝晩運んで来るパンと肉で養われていました(1−7節参照)。その後、エリヤは更に神のみことばを受けて、そこから遠く北西にある地中海沿岸のツアレファテに住むように示され、その地で、やもめを通して養われるという約束を受け、その地に行きました。すると神のみことば通り、やもめに会いました。ところが、そのやもめは貧しく、かめには一握りのパン粉と、つぼには僅かな油しか残っておらず、彼女とその息子は飢え死にしそうになっていました。
しかし、預言者エリヤは、神から告げられたみことばを、そのまま、そのやもめに告げ、そのやもめが神のみことばに従って行った時、不思議な奇跡が起こりました。その奇跡とは、そのやもめと彼女の息子に残されていた、かめの中の一握りのパン粉と、つぼの中の僅かな油を、毎日、必要なだけ使っても、尽きることなく、3年間の飢饉の中、毎日、その必要が満たされて行ったという事です。この奇跡は、神が私たちに尽きることなく与えて下さり、必要を満たして下さる方であることを教えてます。ではどのようにして、尽きない神の供給を受けるのかについて、次に3つお話しします:
(1) 自分の現状を神の前に告白することによって(12節): 預言者エリヤが、貧しいその女に水とパンを求めた時、そのやもめは、率直に、素直に、自宅のかめには一握りのパン粉と、つぼには僅かな油しか残っておらないという現状を全部、神の前に告白しました。この女のように、真実を神の前でお話し、告白することは慰めであり、力であり、神の恵みを戴いて行く第一歩であります。これは、何と幸いな事でしょう。
(2) 神のことばを戴くことによって(13−14節): やもめからの現状の告白を聞いたエリヤは、そのやもめに、「先ず、私に小さなパンを作って持って来てから、あなたとあなたの息子のために作りなさい。そうすれば、神が雨を降らせるまで、かめの粉も、つぼの油も尽きることがない。」と言いました。これは、エリヤも、やもめも、自分よがりの計画や思いからではなく、神である主のみことばに、進んで聴き従うことによって、神のご計画によって導かれて行く事が示されています。私達の日常に於いても、神のみことばを戴きながら歩んで行くことが大切です。混沌とした、多様な世に中で、自分の進む方向を見つけて行くことは、神の恵みを受けるために大切です。みことばを求め続けて行く今年としましょう。
(3) 信仰によって行い始めることによって(15−16節): エリヤがやもめに指示したこと(13-14節参照)に従って、やもめがそれを実行してから、そのかめの中のパン粉と、つぼの中の油は尽きることなく、日々供給され続けました。そのやもめは、「12節」に記されているように、エリヤに対して、「あなたの神」と言っていますが、この「あなたの神」とは、やもめが住んでいた当時の多神論の国では、日常の挨拶言葉であったようです。ですから、そのやもめが、本当の神を信じていた信仰者ではなく、エリヤに言われたことをそのまま実行することは恐らく簡単ではなかったでしょう。けれども、そのやもめは、エリヤを通して語られた神の言葉を信じ、自宅に戻り、エリヤから言われた通りにやってみました。すると、神から約束された通りに、神からの尽きない供給が、3年間、日々与えられ続けられたという奇跡がおこりました。旧約聖書にも、新約聖書にも、多くの奇跡が記されています。その奇跡をよく見ますと、その陰には、神のみことばを信じて、一歩踏み出し、行い始めた小さな信仰の一歩があることに気付きます。私たちは、神に告白し、神の言葉を聞くにとどまらず、信仰の一歩を踏み出す者でありたいと思います。
まとめ: 私たちは、神の前にありのままの自分を告白し、神のみことばを戴き、信仰で一歩を歩み始める時、神からの尽きない供給を受ける事が出来ます。
2008年1月20(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「ガラテヤ人への手紙1章1−17節」から、「人間によったのでない真の福音」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
「ガラテヤ人への手紙」は、使徒パウロからガラテヤの諸教会にあてられたもので、キリスト教信仰について、教理的、実践的に良くまとめられた書です。当時のガラテヤ地方の諸教会では、「間違った福音」(例えば、ユダヤ教の習慣や律法を押し付けた偽福音など)を伝える者が現れ、「真の福音」が疎かにされ、混乱が生じ、危機に面していたようです。そこでパウロは、そのことを「間違った福音」と表現しながら厳しく忠告し、愛と篤い思いを込めて、「真の福音」とは何かについて伝えようとしてこの手紙を書きました。特に今日の部分では、パウロが「真の福音」を、「人間によって受けたのではなく」、何によって受けたのかということを、3つ見ることが出来ると思います。
(1) キリストの贖いの恵みによって(1、4、6節): パウロは、嘗てはユダヤ教の優れた指導者で、パリサイ人で、律法学者でしたが、真のキリストに反逆し、真のキリスト者を迫害する者でした(13節参照; 使徒行伝8章3節、9章21節、26章10節なども参照)。パウロは、自分の考えが正しいと主張し、キリスト者を迫害し続け、更にキリスト者を迫害する為にダマスコに近づいた頃、突然、天よりのキリストに出会い、自分が正しいと思ってキリスト者を迫害して来たが、それは「キリスト御自身を迫害している」という事を知らされ、それまでの自分の罪が、「4節」に示されるように、キリストの十字架によって贖われ、赦され、救われたという恵みを深く知ったのです。私達も嘗ては、神に敵対し、神の御心を知らず、自分中心に、自分勝手に生きて来て、寂しく、的外れの罪人でありました。ところがその罪を知らされ、悔い改め、キリストが十字架で死んで下さったことによって、赦された者たちです。
(2) 父なる神の愛の選びによって(1、4、15節): パウロは、キリスト者を迫害した自分をも、神はあわれんで下さり、愛して下さったるという恵みを、深く知った時、自分は神に選ばれた者(神によって聖別された者)であることを感じました。同じように私たち一人ひとりも、神様がどんなに自分を特別に扱って下さり、愛して下さったかを知るとき、自分は神に選ばれた(聖別された)と感じずにはおれません。私たちは、真の福音をこの神の愛によって、愛の選びによって受けたのです。
(3) 聖霊の示し(啓示)によって(12、16節): パウロは、キリスト者を牢獄に入れる為にダマスコに着こうとする前に、突然、輝く光の中にキリストに出会った経験を通して、聖霊による啓示を受け、自分が真実なる神に敵対する者である事が示され、福音を聴いて、救われ、福音宣教の使命も与えられたのです。その事にについては、「使徒行伝26章」に、詳しく記されています。また、「ヨハネによる福音書16章8−15節」にも示されるように、私達は、助け主であられる聖霊によって、真理の中に導き入れられ、義について、さばきについて示され、真の福音を教えられました。私達は、聖霊の示しによって福音を受けたのであり、聖霊の導きに従うことなしには、信仰生活はありません。
結び: 祝祷で、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」と祈られるように、私達は、「真の福音」を、三位一体の神、すなわちキリストの贖いの恵みによって、又、父なる神の愛の選びによって、更に、聖霊の示しによって受けたのです。アーメン!
2008年1月27日(日)聖日礼拝で、マックルアー・マーク先生は、「マタイによる福音書5章1-5節」から、「悔い改める者の幸い; Blessed Are Those Who Repent.」と題して、次のようにメッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所から、イエス・キリストの「山上の垂訓」と言われるメッセージが始まります。本日は、そのメッセージの最初の3つの「祝福」についてお話しします。
(1)「心の貧しい者」: 心が貧しいことは、物質が乏しいことと関係があります。自分や家族が、物質的に豊かであることは、それそのものが祝福ということではありません。イエスさまは、新しい視点に立って、「先ず、自分の力、自我に頼るのではなく、"心を貧しくし"、自分の罪を悔い改め、神の臨在と力に完全に頼り、信じ、従うという信仰が、祝福への道である」ということを教えて下さいました。この真理は、旧約聖書から新約聖書を通じて一貫して示されています。
(2)「悲しむ者」: 私達は、ある人との人間関係が壊れた時や、愛する人が死んだ時に、その人との関係の深さに初めて気付くようです。そして、「自分が、その人に対する愛が足りなかったことも示されて悲しみ、更にまた、私達と神との関係は、人との関係より更に深く、私達に対する神の更に深い愛に気付いていなかったことを悲しむ者となった時、神は、そのように"悲しむ者"を慰めて下さる」ということを、イエスさまは教えて下さいました。
(3)「柔和な者」: ”柔和な者”とは、自我を砕き、神の働きに気付き、驚き、深い尊敬をもって、聖なるお方として崇め、みことばに聴き従ってて行く時、神の支配のもとにおかれるという祝福を受ける」ということを、イエスさまは教えて下さいました。
= = この後、会衆が3−4名ずつのスモール・グループに分かれ、約15分間の分かち合いの時がありました。先ず、聖書を開き、「マタイによる福音書8章20節」(人の子には枕する所もない); 「ヨハネによる福音書16章20節」(悲しみは喜びに変わる); 「ヘブル人への手紙12章2節」(信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない); 「マタイによる福音書20章25節」(仕える者になれ);という4つの聖句を、順番に読みました。その後、話し合いの時を持ち、@ イエスさまは、この世の基準で考えて、金持ちでしたか、貧乏でしたか? A イエスさまが、どれほど深く悲しまれたと思いますか? B イエスさまは、山上の垂訓を、ただ言葉で言っただけでしたか、それとも自分の生涯でそれを生きましたか? その分かち合いの後、席に戻り、マーク先生から、次のようなまとめのメッセージを戴きました。= =
(1) イエスさまは、30歳頃まで働いた後、公的生涯として、開拓伝道・宣教を始められ、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(「ヨハネによる福音書14章6節)というように、福音を伝えました。そのようなイエスさまの伝道・宣教における収入は不明です。でもイエスさまは貧しい家庭に生まれ、その伝道・宣教の約3年間は、自分が枕する所もない貧しい生活でした(「マタイによる福音書8章20節」参照)。(2) 「イザヤ書53章3節」に予言されていたように、イエスさまは、地上の生涯で、「さげすまれ、悲しみの人で病を知っていた」ということが新約聖書に記されています。。(3)イエスさまは柔和なお方、謙遜なお方です。イエスさまは、大祭司のカヤパの前での宗教裁判と、ユダヤ総督のピラトの前で裁判から逃げることなく、謙遜に対応しました。 イエスさまは、十字架に架けられた時、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」というように、とりなして下さったという柔和なお方でした。イエスさまは、天からこの地上に降りて来られ、謙遜に、神と人とに仕えるお方となり、天地の主として生きておられることを示されました。= = 私達がそれぞれ、自我を砕いていただき、罪を悔い改め、心を開いて神を求め、神を受け入れ、神を愛し、人を愛し、聖霊の導きによって、日々きよめて戴き、仕える者となることによってって、主イエス・キリストの栄光が顕されて行くのです。
光岡恭平通信員