2007年12月2日(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「ルカによる福音書2章22-35節」を中心聖句として、「待ち望む:〜 慰められる事を」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今日は、主イエス・キリスト御降誕4週前の日曜日で、待降節(アドベント)に入り、「待ち望む」という期間に入りました。聖書の中で、「待ち望む」という事は多く記されていますが、それは、「神に期待し、神に希望を持って待つ」という事です。今、主イエス・キリストの御降誕を祝うクリスマスを迎えるに当り、自分達の生活の中で、何を待ち望むでしょうか?本日の聖書箇所の「25節」では、シメオンが「イスラエルの慰められることを望んでいた。」ということが記されています。「慰める」という事は、「何か欠けた所を満たす」とか、「不満な心を満たす」とか、「悲しむ人を労わり、悲しい部分を満たす」などという事であり、人は誰でも、慰められる事を求めています。では、これから、本日の聖書箇所を中心に置き、「どのようにして、慰められる事を待ち望むか」について、次のように3つに分けてお話ししましょう:
@ 「その時代の中で、慰められる事を待ち望む」: 「レビ記12章」によれば、「最初の男の子が生まれたら、8日目に割礼を施し、40日間のきよめの期間が過ぎたら、神殿でいけにえを捧げる」ということが律法で決められています。その律法の通りに、幼子イエスさまが両親によって神殿に連れて来られた時、シメオンに会いました。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配と法律の下で、政治も社会も経済も抑圧され、ユダヤ民族としての誇りや文化や習慣も傷つけられていました。そのような中で、多くのユダヤ人達は、民族の独立、解放のため、政治的メシヤ(救い主)を待ち望んでいました。一方、心も憂鬱になり、道徳も低下し、信仰からも離れ、社会全体が行き詰まっていたようです。でも、シメオンは、正しく、敬虔に生きた人で、その時代の問題の中で民族が満たされ、慰められることを待ち望んでいたのです。「慰める」ということを思うとき「イザヤ書40章1-2節」のみことばを思い出しますが、旧約の歴史の中でも常に人々は、その時代の問題や苦しみから慰められることを待ち望んできました。私達の時代も、豊かで便利になりましたが、一方で人々の心はすさみ、経済が豊かでも、精神的に苦んで行き場がなく、残酷な犯罪もあるという疲れ果てた社会です。私達は、この時代と社会の中でシメオンのように、正しく、敬虔に生き、人々の嘆きや痛みを、自分の嘆きや痛みとし、主イエス・キリストにあって、神の慰めを待ち望みましょう。
A 「聖霊によって、慰められる事を待ち望む」: 聖書には、シメオンが、正しく、敬虔で、聖霊に満たされた人だったと記しています。そして、ある日彼は、聖霊に感じ宮に入り、イエスと出会いました。シメオンは、貧しい身なりで、貧しいいけにえの捧げもの(家鳩の雛2羽)持った両親に抱かれた見栄えのない赤ちゃんのイエスさまを見て、「今こそ神である救い主を見た」といったのです。これは、ただ聖霊によって識別することが出来たことでした。私達も、本当の神の慰めが何であるか、何が真実に求めるものかを、聖霊の導きで待ち望み、神の声を聞き、正しく、敬虔に生きる者でありたいと思います。
B 「信仰によって、慰められる事を待ち望む」: 本日の聖書箇所の「29-32節」の詩は、ラテン語で「ヌンク・デイミテイス」(今、主よ)という美しい讃美です。シメオンは、その時幼子イエスを見ただけで、老人であって、その約30数年後のイエス・キリストの十字架と復活や昇天を見たわけではありません。けれども彼は、すでにここで、信仰によって「主の救いを見」ていました。彼は、旧約聖書に精通していたと思われます。彼は、その約束の御言葉を信じる信仰によって待ち望んでいました。私たちも同じように、この目で見てはいませんが、歴史におきたキリストの出来事を信じて救われています。さらにイエス・キリストを救い主として信じて救われた私たちは、やがて栄光の体へと贖われる日を待ち望んでいます。それは、主イエス・キリストの再臨の日に、大いなる慰めがあり、完全な罪からの解放があることを信仰によって待ち望んでいます。私たちの信仰は、過去のものたけではなく、これからも続くものです。主の約束の言葉を、信じて待ち望みましょう。
私達もシメオンのように、本当のメシヤによって慰められる事をその時代の中で、聖霊によって、そして信仰によって、待ち望む者でありtたいと思います。
2007年12月9日(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「ピリピ人への手紙2章6-8節」から、「待ち望むこと(2)〜ナザレのイエスを」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今週日曜日から、イエス・キリストのアドベント第二週に入ります。「イエス」という名は、「救い主の人としての性質」を表しており、また、「キリスト」という呼び名は、「救い主の神としての性質をもったメシヤ」を表しています。ですから、「イエス・キリスト」とは、「人であり神である二重の性質を持った一人格」の方を表す、意味深い表現です。私達は、人としてのイエスを待ち望んでいます。ナザレのイエスとはどんなお方であるかについて焦点を当てて、次のように3つに分けてお話しします:
(1)「人となった神」(6-7節): 「ヨハネによる福音書1章1-2節、14節」に、主イエス・キリストは、神ご自身である方が、人となって、私達の間に住んで下さったことが、意味深く、美しく書かれています。神が人となって下さったということに思い巡らしてみましょう。それは、@ 「神が制限を受けて下さった」ということです。神は無限で永久に全知全能で、聖なる方ですが、人という限りある肉体をもって下さいました。それは、地球上の空気が、小さな風船に閉じ込められたようなものであり、全宇宙を小さな瓶に押し込めたような感じです。無限の神が、人として母の胎内に宿り、無防備な赤ちゃんとしてこの世に来て下さったということは、不思議な神業であったと思います。また、A 「神が小さくて弱い姿になって下さった」ということです。これは、全知全能の力を持つ神が、小さな弱い赤ちゃんとしてこの世に生まれ、世話をしてもらわないと、命がなくなるという存在になったのです。
(2)「仕える者の姿をとった方」(7節): 人としての「ナザレのイエス」は、仕える者の姿をを取って下さいました。私達の世界もこの世の中で私たちは、政治力、経済力、軍事力、知力などの力を持ち、それを用いれば、世界や人々を動かし、他人を支配出来るように思いがちです。ところが、本日の聖書箇所の「6-7節」には、キリスト・イエスは、神の座を降り、「仕える者の姿となって下さった」ということが示されています。「ナザレのイエス」の生涯を示す聖書の福音書によれば、次のように示されます: @ イエスは、当時の弱い人々や罪人達に近づき、仕える者となり、当時の宗教家達を偽弁者と見做し、それら偽弁者たちが嫌っていた罪人とも食事をしました。また、A イエスは、姦淫の女を救い、異邦人にも友のように近づき、社会から隔離されていたハンセン病の人々に近づき、手で触れ、癒したのです。また、B イエスは、ご自身が大工の子として育ってから、宣教を始めるに当り、名もなく、学問もない人々、漁師達などから、12人の弟子達を選びました。そして、C 「マルコによる福音書10章45節」や「マタイによる福音書20章28節」に記されているように、イエスは、仕える者となって下さいました。また、D 「ヨハネによる福音書13章14-15節」には、イエスが十字架の苦しみの前に、弟子達一人一人の足、弱い罪人の足を洗って下さったことが書かれています。このイエスの愛に溢れる洗足は、正に、私達が権力で生きるのではなく、仕えて世に生きることを教えてくれています。
(3)「苦しみと病を知る方」(8節): 「イザヤ書53章」には、救い主イエスが、「苦しみの人で病を知っていた」とあります。また、「ヘブル人への手紙4章15節」や「ヘブル人への手紙5章2節」は、イエスご自身が弱さを身にまとい、試みに会われた方で、人々を思いやり、同情して下さる方であると示されています。苦しみと病を知る私たちの主は、@ 貧しい大工の息子として、貧困の苦しみを知っていました。 A 宣教を始めますと、生まれ故郷のナザレで拒否され、受け入れられませんでした。 B 大工の長男として生まれましたが、大工にならず、家族を捨て、離れなければなりませんでした。、C 宣教を開始し、神の国の福音を伝えましたが、批難され、人々から理解されませんでした。 D また、大切に育ててきた弟子たちにも裏切られました。そして、E 最後は十字架で殺されました。これは肉体の、心の、魂の痛みでした。= = イエスは、そのような苦しみや痛みによって、人の苦しみや病を理解出来、同情出来る方です。
= = 私達は、「神であられる方が人となり」、「仕える者の姿をとり」、「人間の苦しみや病を負って下さった」という、「ナザレのイエス」を待ち望んでいます。= =
2007年12月16(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「マタイによる福音書2章1-12節」から、「待ち望むこと(3)〜王なるキリストを」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今日から、イエス・キリストのアドベント第三週に入ります。先週の礼拝メッセージでは、私たちが待ち望んでいる「ナザレのイエス」とは、どんな方であるかについてお話ししました。今日は、神としての性質を示す「キリスト」という呼び名に焦点を当て、救い主、メシヤ、即ち、「油注がれた王なるキリスト」について三つの点でお話ししましょう。
(1) 王としてお生まれになった方: 本日の聖書箇所の「2節」に示されるように、東方の博士達は、東のほうで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を示す星に導かれて、遥々エルサレムまで来ました。東方の博士達は、救い主が、貧しい大工の子、ナザレのイエスという赤ちゃんということではなく、豊かな王なる救い主であると、輝く星を通して示されていました。地上の王が豊かな富にあふれているように、この王なるキリストも豊かさに満ちたお方でした。「ヨハネによる福音書1章14節、16節」、「エペソ人への手紙1章23節、3章19節、4章13節」などには、キリストは、「神の国にある神の力と知恵と恵みとまことという神の性質に満ち満ちた豊かさを持っておられた」ということが示されています。キリストは、貧しさの中で、小さな赤ちゃんとして生まれましたが、神の豊かさに満ち満ちた「王なるキリスト」で、欠乏している私達の真に必要なものを全て与えることが出来る豊かさに満ち満ちた方です。
(2) 地上の王に勝って強い方: 当時のユダヤの王であったヘロデは、充分な富と力を持っていたでしょう。本日の聖書箇所の「4節」に示されているように、ヘロデ王の一声で、祭司長達や学者達が集められるような力の持ち主でした。でも、その力ある地上の王は、東方の博士達が言う「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」のことを聞いて、恐れ惑いました。私たちの王なるキリストは、地上の王をも恐れさせる方です。また、「8節」に記されているように、ヘロデ王は、嘘の策略をもって、東方の博士達をベツレヘムに送り、キリストの居場所を突き止めようとしました。けれども神の守りの中で、ヘロデの計画は思うようにいきませんでした。さらに、恐れと怒りに駆られ、ヘロデ王はその後間もなく、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を全部殺させました。けれどもその時も、幼子イエス・キリストは、神に守られ、エジプトに逃れ、ヘロデ王による殺しの手に罹りませんでした。キリストの地上での生涯は、地上の政治に屈したように見える十字架で殺されても、3日目に王なるキリスト、メシヤとして復活され、勝利しました。王なるキリストは、人の間違った力をも用いて、全てを益とし、神の栄光を現すことが出来る方です。私達は、地上の王より力ある王なるキリストの力、勝利、助けを信頼していきたいと思います。
(3) 諸国の光として礼拝される方: 本日の聖書箇所の「9-11節」に示されるように、東方の博士達は、星に導かれて、幼子である「王なるキリスト」の前に来て、ひれ伏して拝みました。ここに、キリストがひれ伏して礼拝されるべきお方であることを見ます。幼子は、やみの中の小さな光のように小さなものでした。また、この時捧げられた礼拝も小さなものでした。けれども、その小さな光はやがて諸国を照らす光となりました。(「ヨハネによる福音書1章4節、1章19節」、「イザヤ書42章6節、49章6節」などを参照)。「王なるキリスト」は、希望の光として礼拝されるべき方です。一方で私たちは、この礼拝されるべきお方が、人間の問題の中で礼拝されている現実も見ます。世界の人々の中には、言葉や皮膚の色に違いがあり、争いもあります。けれども私たちは、その問題や争いの只中で、主の再臨の日には全ての人がこのお方の前にひざをかがめ礼拝することを信じ、希望を持って世界のキリスト者と共に今礼拝を捧げています。
= = 私達は、豊かさに満ち満ちた、何にもまして力ある、世界中で光として礼拝されるべき王なるキリストを待ち望んでいます。= =
2007年12月23(日)聖日礼拝では、中島由美子先生が、「ルカによる福音書2章11-12節」から、「迎えること〜隠された宝」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今週は、救い主、主イエス・キリストの御降誕(クリスマス)を迎える日が来ます。これまで3週間に亘るアドベントの主日礼拝で、「待ち望むこと」として、(1) 慰められる事、私達の心の欠けたところが満たされることを待ち望み; (2) 神が人となり、仕える者となって、苦しみと病を知って下さるナザレのイエスを待ち望み; (3) 神の御子として力ある方、世界で礼拝される王なるキリストを待ち望むということをお話しして来ました。本日は、3週間に亘って待ち望んで来たお方は、「隠された宝」であった。そして、私たちはクリスマスにこの「隠された宝」を迎えるのだということをお話しします:
(1) イエス・キリストのしるし: 貧しいナザレの大工の子であった「ナザレのイエス」が、「神の国の王」である方である事は、当時の現状では理解困難な事でした。本日の聖書箇所には、世界の救い主、主イエス・キリストの「しるし」は、「ベツレヘムで布にくるまって飼葉おけに寝ておられる赤ちゃんである」ということが記されています。しかし、この証拠は、なんと世界の救い主にふさわしくない証拠でしょう。そのため多くの人々は、躓きました。けれども、この「主キリストのしるし」は神の知恵でした。それは、すべての人がへりくだり、信じることによって見出すための神の知恵でした。救い主イエス・キリストという隠された宝を見出して、お祝いするのがクリスマスの本質です。
(2) 隠された宝:
(2−a) それらしくないものの中にある大切なもの: 例えば、人生の中で失敗を通してでなければ教えられない大切な事があります。或いは人生の苦難、死にたいと思うような苦しみの出来事の中に、神の深い愛を発見し、神に出会うという大切な事もあります。又、貧しさの中で見つける大切な物、宝もあります。苦労があり、痛みのある生活で、マイナスと思える中に、神からの大切なメッセージがあるのではないでしょうか。
(2−b) 最も大切な宝、隠された愛: 米国で有名なオウ・ヘンリーという小説家が書いた「賢者の贈り物」という本の中に、貧しい夫婦が、クリスンマスの贈り物として、お互いは秘密にしながら、夫は、妻にプレゼントする美しい髪飾りを、自分の懐中時計を売った金で買い、妻は、夫にプレゼントする懐中時計につける鎖を、自分の髪の毛を売った金で買いました。そしてクリスマスの日に、お互いのプレゼントを見て驚きました。しかし、2人は、プレゼントに隠されたお互いの深い愛を見つけました。そして、それが最も大切なものであったのです。クリスマスの出来事は、神の一人子キリストが、人となってこの世に御降誕されたという事です。この出来事は、ある人にとっては信じられぬ事であり、馬鹿げた事と思うでしょう。でも、この出来事、クリスマスこそが、最も大切な神の宝である愛の贈り物なのです。神は、私達の心の欠けたところを満たし、慰めたいと、深く関心をもって下さり、愛して止まないお方です。そのために、神は、神の座を降りて、人の座に近づき、人間の中に宿り、人間の中に生きて下さいました。またこれからも生きて下さいます。このことこそ、神の愛であり、神の愛の贈り物です。
(3) 見い出すこと・迎えること: 私達が今週迎えるクリスマスに思いを巡らし、静まり、今の生活の中に隠されている宝を見い出したいと思います。それは、隠された宝であるイエス・キリストご自身です。神が隠されている大切な宝を、キリストにあって見い出し続けて行きましょう。布にくるまれた小さな幼子のように、人生の深いところに隠された恵みである、キリストご自身を見い出して、お迎えし、感謝して受け取りましょう。
= 私達は、クリスマスに、隠された宝である主イエス・キリストを見出し、迎える者でありたいと思います。=
2007年12月30日(日)聖日礼拝で、マックルアー・マーク先生は、「マタイの福音書24章3-14節」から、「最後に; In the End」と題して、次のようにメッセージを取り次いで下さいました:
イエスさまは、始めであり、終わりです。全てのものは、イエスさまによって創られました。全て創られたものは、いずれの日にかイエスさまに跪きますが、イエスさまが全てのものを完成させます。やがてイエスさまを通して、新しい天と地がやって来て、永遠の神の国が到来し、神の国が完成されるのです。でも、もう既にイエスさまにあって、この地上での神の国は現実となっています。今、私達は、今年の終わりを迎えています。過去を顧みるのに丁度よいこの時、私達は、時が経つのはとても早いと感じます。
ある時、イエスさまの弟子達が、イエスさまにこの世の終わりについて尋ねました。その時イエスさまは真剣に考えるべきことがあることを弟子達に教えました。その中で、イエスさまは、現在、私達の世界で起きている戦争、地震、飢餓、自然大災害など(本日の聖書箇所6節、7節)や、この世の中では、イエスさまを信じる人達を憎み、迫害する組織が現れること(9節)、更に、クリスチャンの間で互いに裏切ったり、憎んだりする者が現れ、偽預言者達と共に、クリスチャンとしてのあり方を裏切っていく人達(10節、11節)などにつても、既に語られていました。
イエスさまは、本当の平和の君です。けれども、キリストの平和は、この世を正当化したり、自己満足させるものではなく、キリストが、クリスチャン達と共にいて下さり、未信者と区別して、平和を与えて下さるのです。神であるイエスさまの精神は、妥協する精神とは違います。イエスさまは、私達が愛をもって真実を語るように望んでおられ、私達がイエスさまに信頼し、イエスさまを愛し、イエスさまに聴き従って行く時、どんな状況の中でも、私達と共にいて下さいます。でも、イエスさまは、この世の邪悪さによって、殆どの人の愛は冷えて行くということを警告しています(12節)。
イエスさまは、イエスさまの愛と真実さの中に生きて行く人こそが、永遠の命に永らえるということを約束しています。これは、イエスさまが言葉と行いで証しした本当の福音、即ち、神の国のよい知らせであり、本当の終わりの日が来て、続く新しい始まりがやってくるのです。
= = この後、会衆が3−4名ずつのスモール・グループに分かれ、約15分間、キリストの愛を探し、示されることを分かち合い、イエスさまが示された「新しい戒め」(わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。[ヨハネの福音書13章34節参照])のみことばも確認した後、席に戻り、マーク先生から、次のようなまとめのメッセージを戴きました。= =
神は、私達に、イエスさまに対する信仰を確かにするように求めておられます。そして、私達が、神の愛の現実によって、愛の中に生きて行く証し人となって、福音を人々に伝えて行きましょう。
光岡恭平通信員