2007年8月5日(日)聖日礼拝で中島光成牧師は、「マタイの福音書2章1-12節」から、「2つの礼拝」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
マタイの福音書2章は、イエスがベツレヘムで生まれて、ナザレに住むまでのことが記されています。マタイは、それらの出来事を旧約聖書のミカ書、ホセア書、出エジプト記、エレミヤ書、イザヤ書などに示されている預言の成就だと記します。本日の聖書箇所には、幼子イエスを礼拝の対象として、2つの両極端な礼拝かが示されています。「ヘロデ王の礼拝」と「東方の博士達の礼拝」です。
(1) ヘロデ王の礼拝は、一言でまとめると、恐れに支配された、動かない礼拝と言えるでしょう。ヘロデ王は、ローマからユダヤの王として任命され、約34年の治世中、「ヘロデ大王」と呼ばれ、領土内の治安を維持し、神殿も建て直し、飢饉の時には、自分の倉の食料を放出して人々に与えました。同時にヘロデ王は、疑い深く、残忍でした。王位を脅かす者達を身内も含めて殺害したのです。そのようなヘロデ大王でも、東方のペルシャ(現在のイラン)の博士達が長旅をして、エルサレルムにいる自分の王室まで来て、自分の目の前で、「ユタヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでですか。」と聞かれて、「恐れ惑った」のです。そこでヘロデ王は、祭司長達、旧約聖書に通じている学者達を集め、「ユダヤ人の王、キリストはどこで生まれるのか」と聞いて、その場所はベツレヘムであることが特定されました。次にヘロデ王は、東方の博士達に、ユダヤ人の王キリストの生まれた時を問い質し、それは約2年前であったことを知りました。それでもヘロデは、自分で行かず、博士たちの報告を待ちます。ヘロデ王の特徴は、自分で動かず、他人にやらせるということです。恐れに支配された、動かない礼拝の結果、ヘロデ王は、ベツレヘムとその近辺の2才以下の男の子を全部、殺させたのです。
(2) 東方の博士達の礼拝は、一言でまとめると、喜びに支配された、動きのある礼拝と言えるでしょう。東方の博士達は、その旅の終わりにイエスの居場所を照らす光を見て大いに喜んだ、と記されています。その喜びは、きっと自国において不思議に光る星を見た時からの喜びだったでしょう。東方の博士らは、専門の天文学の本を調べただけでなく、恐らく旧約聖書も読んだでしょう。東方のペルシャには、当時の約600年前からユダヤ人が住むようになり、ダニエルや、エステルなどが活躍した土地です。一部のペルシャ人達が旧約聖書を読むようになっていたとしても不思議ではありません。そうしたペルシャ人達の中にも、イザヤ書、エレミヤ書、ミカ書、マラキ書などに預言されている救い主メシヤが生まれるということを心待ちにしていた人がいたのでしょう。そして、紀元前7年頃に、ペルシャの博士達は、不思議な光を放つ星を見たのです。そして、天文学や旧約聖書を調べて、その星がユダヤ人の王、救い主メシヤの誕生を示す星であることに意見が一致し、ペルシャからエルサレムを経てベツレヘム迄、約800マイルの長旅での命の危険をも恐れず、幼子イエスの元に辿り着いたのです。東方の博士達は、幼子イエスの前で、ひれ伏して幼子イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬という贈り物を捧げました。このように、東方の博士達は、@危険のある長旅で自分達の命を捧げ、A財産を捧げ、B博士の位を降り、ひれ伏して、自分を殺すように捧げて礼拝したのです。これが、本来の礼拝のあり方です。旧約聖書時代には、神に動物の犠牲を捧げて礼拝がなされていました。イエスさまは、父なる神を信頼し、身を低くし、十字架で命を捧げ、人類の罪の贖いをなされました。このイエスさまに、神への信頼の姿と、神への礼拝の姿が示されています。そして、イエスさまは3日目に復活し、新しい命を得たのです。東方の博士達も、命をかけて幼子イエスを礼拝した後、神の導きが与えられ、ヘロデ王の所には戻らず、自分の国に帰り、新しい命が与えられたのです。
「マタイの福音書10章39節」には、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、私のために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と記されています。礼拝においても、自分の立場を見て、自分が正しいと思い、正当化する礼拝は、幼子達を虐殺した権力者であるヘロデ王の礼拝のようです。それに対して、東方の博士達の礼拝は、自分の立場はどうでもよくなり、神に捧げ、神によって変えられる礼拝と言えるでしょう。そこに神様の命が注がれ、喜びが湧き出てくるのです。
2007年8月12日(日)聖日礼拝では、サンデイエゴ日本人教会の牧師であり、また先月から、当教会、ノースカウンテイ・クリスチャン教会(NCJCC)の監督牧師となられた、大倉信師がNCJCCに来て下さり、「出エジプト記13章17-22節」から、「あなたが歩んでいる道について」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
出エジプト記に記されるモーセの生涯は、神の導きのもと、最初の40年間は、エジプト王宮の中で世界最高の学問を学び、次の40年間は、ミデヤンの荒野で羊飼いをしながら、無駄な骨折り生活と思えるような生活なりました。しかし、「神の思いは遥かに高く」、その後の40年間で何百万人ものイスラエルの民を導くため、「神による備えの40年間」が与えられのです。そして最後の40年間では、モーセは神に示されるままに、エジプト王パロと直談判をし、エジプトでの奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を解放するに至ります。イスラエルの民は、荒野の旅の生活で、神から3つのことが示されました。それは、@神が示された道(17-18節); A道すがら励まされる神(19節); B道の先頭に立つ神(20-22節)ということです。この3つは、私達の個人生活でも、また教会生活でも示されて来ます。次に、その3つをお話ししましょう:
@神が示された道(17-18節); イスラエルの民は、エジプトでの奴隷生活から解放された時、モーセがリーダーとなって、神から示された道を40年の歳月をかけて、最終地点である乳と蜜の流れる約束の地、カナンを目指しながら、遠回りの荒野の旅を続けました。エジプトからカナンへの最短距離は、エジプトから東に進み、地中海沿岸沿いの緑のある道で、魚や水浴などを楽しめる道でした。しかし神は、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民が、エジプトを南下し、紅海を渡り、更に南下してシナイ山から北上して荒野の道を通るような非常に遠回りの道を行くように示されたのです。それは、イスラエルの民が、宿敵であるペリシテ人のいる最短距離の道を行くことによって、またエジプトに戻ってしまうようなことがないようにする、神のご計画でした。神は、イスラエルの民の危機を見通して、近道ではなく、遠回りの道を示したのです。私達の人生でも、また教会においても、主イエス・キリストにあって、遠回りに見えるような歩みでも、神のご計画によって、一つ一つ恵みが与えられて行く道であることを体験出来るのです。
A道すがら励まされる神(19節): モーセの時代から約400年前に、ヤコブの息子ヨセフは、兄弟によってエジプトに売られましたが、エジプトの宰相となり、110歳で死ぬ直前に、3代の子孫達を前にした遺言として、自分が死んだら、その遺骨を神に約束された地、カナンに携えて上る様に頼みました(創世記50章22-26章)。そのようなヨセフの遺言に基づき、イスラエルの民は、神が必ず自分達を顧みられ、エジプトから出るように導いて下さることを、400年間に亘り語り継げられ、伝えられ、励ましと希望が与えられて来ました。「申命記8章2-4節」」に示されるように、イスラエルの民は、40年に亘る荒野の旅で、神のみことばに導かれ、神に守られて行ったのです。神がモーセを通してイスラエルの民を導いたように、NCJCCの教会も、神は中島光成先生を通して導き、励まし、希望を与えて下さいます。
B道の先頭に立つ神(20-22節): 荒野を旅するイスラエルの民は、昼は雲の柱に導かれ、夜は火の柱に導かれて歩んで行ったのです。荒野での昼は、雲がなければ暑くて歩けなかったでしょう。また、夜は、火の柱によって暗やみから守られたでしょう。では、今日において、神から示される指針は何でしょうか?それは、神のみことばです。「詩篇119編105節」に「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と示される通りです。また、「マタイの福音書24章35節」に、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」と示される通りです。アーメン!
この後、大倉先生の司式によって、聖餐式が行なわれ、続いて、中島光成牧師の就任式も行なわれました。
2007年8月19(日)聖日礼拝では、中島光成牧師が、「マタイの福音書3章13-17節」を中心聖句とし、「公生涯のスタートとしての洗礼」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
先週は、私の牧師就任式がありました。そして本日の礼拝メッセージは、連続講解説教の順番で「マタイの福音書3章」からイエス様の公生涯のスタートという事になりました。また、マックルアー・リッキー兄が、カルバリー・チャペル・フォールブルックにて洗礼を受けている今日、イエスさまの洗礼の事を学びます。このようなめぐり合わせに、神の導きを感じます。
イエスさまの公生涯が、受洗で始まったということには、深い意味が示されています。本日の聖書箇所の15節には、イエスさまは、「すべて正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言う言葉で、洗礼を授けることを躊躇したヨハネを説得します。イエスさまを「神の子羊」と呼ぶ感覚のあったヨハネは、将来罪人として殺され、世の罪を贖うイエスさまの姿を霊の目で見ていたのでしょう。罪人として数えられるような洗礼をイエスさまが受けることは、イエスさまの公生涯をのぞみ見るとき、まさに正しいことでした。神の子であるイエスさまが、罪人の列に混じって洗礼を受けられた、これは正に、愛とへりくだりの洗礼です。
これに対して、律法に詳しく、儀式的なきよめを実践して来たユダヤ人であるパリサイ人達や、神殿祭司としての礼拝を大切にして来たサドカイ人達も、ヨハネから洗礼を受けに来ました。彼らの洗礼は、滅びから逃れたいという自分を守る為のものでした。また、自分たちの祖先はアブラハムだ、という傲慢な選民意識を持ったままの洗礼でした。そういう彼らは、ヨハネからは「まむしのすえ」と呼ばれ、後日イエスさまと対立していき、最後にはイエスさまを十字架にかける事になります。
愛とへりくだりの洗礼を受けたイエス様は、「天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」ということです。また、天から、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という声が聞こえてきたのです。
私達も、キリストを頭とする神の教会であることを覚え、愛とへりくだりを実践していきましょう。その時、聖霊に満たされ、神様からの「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」という声を、私たちにかけられている声として聞き続けることができます。= = この後、約10分間、2-3人ずつのスモール・グループに分かれ、それぞれ自分が受けた洗礼の経緯とその後の信仰の歩みを黙想し、愛とへりくだりはどうであったかを思い、分かち合いの時を持ちました。= = 最後に、中島光成先生から、「私達は、救い主イエス・キリストを愛し、お互いを愛し合い、へりくだって、実のあるクリスチャン生活を送りましょう。」というお勧めがありました。
2007年8月26日(日)聖日礼拝で、マックルアル−・マーク先生が、「ヨハネの福音書8章31-32節」を中心聖句とし、「真理への道]と題して、英語でメッセージを取り次いで下さり、中島光成牧師が日本語で次のように伝えて下さいました:
本日の聖書箇所に記される「自由」とは、「本当の自由」で、「本当の自由」が与えられる者となるには、次のような出発点があり、ステップがあります: @ 天地万物の創造主である神の前にへりくだり、愛の真理であるイエス・キリストに従って行くという信仰の決断が、先ず必要です。A その信仰の決断によって、イエス・キリストの弟子となり、B 愛であるイエス・キリストのみことばの真理を知り、みことばの真理に聴き従い、C 聖霊の導きによって、きよめられ、平安が与えられ、敵をも愛する愛を実行して行くという自由が与えられた者へと成長して行くのです。
では、「従う」ということに焦点を当てて、もう少し詳しく考えてみましょう。@イエスさまは、地上で十字架に架けられる前から、人々が神に従い、お互いに愛し合い、仕え合って行くように命じておられました。イエスさまが、父なる神に従って、神に仕え、人々にも仕えたように、私達も、私達の主である神の子イエス・キリストに従い、主に仕え、また、人に仕えることにより、キリストにあって、成長して行くことが出来るのです。A「従う」ということは、イエスさまが地上に下られる以前から、神が人に求めたことです。旧約聖書には、「従う」という言葉が、500回以上も用いられています。旧約聖書に記されている「従う」という言葉は、私達の主なる神こそが権威があり、力があるお方であるから、その神に従うという文脈で使われています。神の霊をコントロールしようとするというのでは、主なる神に従っているとは言えません。Bまた、「ミカ書6章6-8節」に示されているように、神が私達に求めておられることは、いけにえを主に捧げることよりも、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、神のみことばに聴き従って、私達の主である神と共に歩むことです。Cそのような者は、「エゼキエル書37章1-10節」に示されているように、死んだ骨の1つ1つに神の息吹きがかけられ、命が与えられ、生き返るようになるのです。これは正に、神のみことばに聴き従う者は、神が下さる賜物として、永遠の命が与えられるということです。D天地創造の父なる神からこの世に遣わされた御子イエス・キリストは、罪も汚れもないお方でしたが、父なる神のみことばに聴き従い、罪を犯して死んで行く人々の罪の身代わりとなって、十字架上で死んで、復活され、サタンに勝利し、イエスさまが預言された通りのことがすべて成就されたのです。イエスさまは、皆の前で預言した通りに実践されたお方であり、人には出来ない事でした。「ヨハネの福音書14章6節」に記されているように、イエスさまが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。― − 」と言われたことが実現されたのです。E「申命記30章11-14節」には、モーセが会衆に向かって、「みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」と告げ、「みことばに聴き従う」ように励ましたことが記されています。Fまた、「マタイの福音書5章から7章」は、みことばをよく理解できない人が、その聖書箇所を読むと、聖書理解が深められる箇所です。特に、本日は、その6章に示される「主の祈り」に注目しましょう。これから、3-4人ずつのスモール・グループに分かれ、約10分、「主の祈り」の中で、「私達が従うように神から求められていること」について分かち合いの時を持ちましょう。= = このような分かち合いの後、一同が席に戻り、次のような締め括りのメッセージを戴きました:= =
「主の祈り」の中で、「私達が従うように神から求められていること」は、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す」ということです。また、「ローマ書6章16-23節」に示されているように、私達は、罪の奴隷、即ちサタンの奴隷になることなく、義の奴隷、即ち神の奴隷となるように、みことばに聴き従い、神が下さる永遠の命という賜物を戴きましょう。
光岡恭平通信員