2007年7月1日(日)聖日礼拝では、新任の中島光成牧師が、「黙示録21章1-8節、22章1-5節」から、「ゴールを目指して」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
私達家族は、先月20日に米国東部のバージニア州ハリソンバークから、引越し先の西部カリフォルニア州ビスタまで、8泊9日の旅をしました。この旅路を通して、人生の旅路や、歴史の旅路を思わされました。そして、聖書は、人生の旅にも、歴史にもゴールがあることを明記しています。「黙示録」には、歴史のゴールである新天新地が開かれた時、「無くなるもの」と「与えられるもの」とが示されています。本日は、その「無くなるもの6つ」について話し、「与えられるもの」については、来週の聖日に話します。
(1)「黙示録21章1節」に示されるように、新天新地では、その前の天地にあった「海」が無くなります。その「海」とは、「災いの源」を意味します。中世に至るまで、「邪悪な獣が住む場所」と考えられ、また、イスラエルにとっては、「海」は、「船で渡って上陸してイスラエルを侵害したペリシテ人を通らせた場所」という記憶もあり、そのような「海」=「災いの源」が、もはや新天新地では、無くなるのです。
(2)「黙示録21章4節」に示されるように、新天新地では、神は「涙」をすっかり拭い取って下さり、死も、悲しみ、叫び、苦しみもないということです。今の世界では健康でも、苦しみがあり、何時かは死ぬが、新天新地では、災いの影響が無い、永遠のいのちの世界が用意されています。
(3)「黙示録21章8節」に示されるように、新天新地は、「火と硫黄との燃える池」である地獄ではなく、「第二の死」もなく、聖徒達は、キリストによる十字架の贖いによって救われ、きよめられ続けたので、神が初めて人類の始祖であるアダムとエバを創造された時の美しい人格を回復して下さり、永遠のいのちに生きられるように、用意されているのです。
(4)「黙示録21章22節」に示されるように、新天新地の都の中には、「神殿」が無いのです。新天新地では、決まった場所と時間での礼拝は必要ではなく、何時でも、直接に、イエス・キリストと交われるからです。「黙示録4章10-11節」は、天国には、夜も昼も讃美に満ちていることを示し、「黙示録5章11-13節」にも、天国で讃美されるべきお方と直接お会いした数え切れない数の御使い達、長老達の讃美の姿が示されています。私達も、この地上の歴史の終りには、全てを投げ出して死んで人類の罪を贖って下さった、光と愛のキリストとお会い出来ることを目指して、日々、信仰の旅路を、一歩、一歩歩んで成長して行きましょう。
(5)「黙示録21章23節, 25節」は、新天新地の都には、「太陽も月も無く」、「門は閉じられることが無い」と示しています。「ヨハネによる福音書1章9節」は、イエス・キリストは、「すべての人を照らすそのまことの光」であると示しています。そのように、天国では、いつもキリストの光に満たされ、太陽や月が無くても、何時も明るく照らされ、また、夜がないので、門も閉じておく必要がないということです。
(6)「黙示録22章3-4節」は、新天新地の都には、もはや「のろわれるものは何も無い」と示しています。神が初めて人類の始祖であるアダムとエバを創造された時は、素晴らしかったが、人間が神のみことばを疑い、神から食べるなと禁じられていた木の実を食べてしまったがために、のろわれ、代々のろいが受け継がれて来ています。しかし、新天新地の世界では、のろいが無くなり、祝福に満ちた世界であることが約束されているのです。
私達は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」(ヘブル人への手紙12章2節)、歴史のゴールへの導き手である、イエス・キリストを仰ぎ見つめつつ歩む時、今の世にあっても、新天新地で与えられる祝福を一部味わいつつ生きることができるのです。そのように、日々きよめられ、信仰の証しとなるような愛の行為をもって、歩み続け、共に天国のゴールを目指して行きましょう。
2007年7月8日(日)聖日礼拝では、中島光成牧師が、「黙示録21章9節-22章7節」から、「ゴールを目指して:その2」と題し、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
先週の聖日礼拝では、「ゴールを目指して」と題し、歴史のゴールである新天新地が開かれた時、「無くなるもの6つ」を話しました。本日は、新天新地が開かれた時に与えられる「神の都」の特徴を7つ見て行きましょう:
(1)「都市」(21: 10): 「神の都」とは、「天から下って来る聖なる都」であることが示されており、それは、「エデンの園」のような田園ではなく、「都市」です。旧約聖書に記される田園や荒野などには、神を信じて神に聴き従うアブラハムやモーセなどが住み、評価されている土地ですが、「ソドム」、「エジプト」、「バビロン」などという都会は、神に敵対する者達が住んでいる場所と見られていました。この地上での都市は、犯罪が多く、罪人の作り出す町と言えるでしょう。でも、罪が赦され、罪が除かれた人達には、新天新地で、神から新しい、恵み豊かな都市が与えられるのです。
(2)「エルサレムという名の都市」(21: 10): 神は、歴史を大切になさいます。エルサレムは、ダビテによってその町の基礎が造られ、その前には、アブラハムが息子イサクを捧げた場所ですが、現在は4つの宗教によって分割され、争いの中にあります。しかし、「エルサレム」という名が、「神(エル)の平和(サレム)」という意味を持つ名であるように、「エルサレム」は、やがて、イエス・キリストの十字架の血で洗いきよめられた、「神の平和」の礎の場所となるのです。
(3)「新しくされた都」(21: 5): 「神の都」は、神が、既にあるイスラエルの失敗の歴史を、成功の歴史へと、新しくやり直して下さるイエス・キリストの贖いの御業が完成され、「新しくされた都」です。神は、私達の人生をも、霊的にやり直して下さることを覚え、感謝しましょう。
(4)「巨大で包括的な都」(21: 16): 「神の都」の大きさは、縦、横、高さが、それぞれ約1,500マイル(米国東西の距離の約半分)の立方体で、その中には全人類の聖徒達が入れる器として用意されているのです。「神の都」の大きさは巨大で、神の都に入る門は、全聖徒達に開かれており、愛する未信者も、神のあわれみによって、その門から入れることを期待したいと思います。イエスさまが十字架を前にして言われたように、ご自分の父の家には、弟子達のために住まいが沢山用意されているのです。
(5)「愛される美しい花嫁としての都」(21: 9): 神は、新しいエルサレムである神の都を愛し、その都は、さまざまな黄金宝石で象徴されるような美しい花嫁としての都であることが示されています。イザヤ書に示されるように、聖徒達が神の目には高価で尊いと見られるように、エルサレムも新しく高価で尊い都に変えられるのです。
(6)「きよい都」(21: 10 & 17): 「神の都」は巨大で、全ての聖徒達が入れる「聖なる都」ですが、「神の都」の外側とは隔ての城壁があります。その城壁の厚さは約65メートルもあり、「神の都」の外側にある汚いもの、醜いものとは隔てられ、キリストによる贖いで、きよくされた者達以外は、入れないような城壁で隔てられています。
(7)「活動的な都」(22: 1-5): 「神の都」は夜がなく、その住人達は、神である主に照らされ、永遠に王として、生き甲斐のある活動が出来る場所として用意されています。
以上のような「神の都」の7つの特徴を纏めますと、歴史のゴールで与えられる「神の都」は、新しくされた巨大で美しい、聖く活動的な都エルサレムである、ということです。そして、それらの特徴は、イエス様がおっしゃるように、今私たちクリスチャンの真っ只中でも、与えられ始めているのです。私達は、今の世にあっても、日々新しくされ、美しくきよく、神に愛される、そして多くの人を、その人生を尊重しつつ愛を持って受け入れることのできる、キリストに似た姿、人格へと育てられ始めているのです。「コリント人への第一の手紙15章58節」に示されるように、私達がこの世の教会、家庭、職場などで、主にあって目立たぬことをしていても、神はそれを覚えておられ、やがて終りの日に、「あなたはよくやった」と神に言われ、それらは私達に「神の都」が与えられる上で大切なことなのです。このように、私達は、「黙示録」から想像力を働かせて、「神の国」をイメージさせて戴き、希望が与えられる恵みを感謝します。また、その恵みは、既に、イエス・キリストによって確実に与えられていることも覚え、感謝します。アーメン!
2007年7月15(日)聖日礼拝では、中島光成牧師が、「マタイによる福音書1章1-17節」から、「救い主に至るひとすじの流れ」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今日の聖日礼拝からは、「マタイによる福音書」を読んで行くことにします。その理由は次の3つです:
(1)イエス・キリストに焦点が当てられている: 福音書にはイエス・キリストの言葉と行いが記されています。私達の教会(NCJCC)も、「マタイによる福音書」の学びを通して、教会の礎であり、中心であり、頭であるイエス・キリストに、よりはっきりと焦点を当てて歩んで行きましょう。
(2)「旧約聖書」と「新約聖書」との架け橋となっている: 「マタイによる福音書」には、その書物としての位置も旧約と新約の間にありますが、その性格も旧約と新約をつなぐものと言えます。「マタイの福音書」を通して、私たちの主イエス・キリストについて学ぶと同時に、旧約聖書をも味わうことが出来たらよいと思います。
(3)「教会」を意識している: 「四福音書」中、「マタイによる福音書」だけが、「教会」という言葉を用いています。また「教会」のあり方についても暗示されています。私達のNCJCCも、創立から約16年の歴史があり、色々な出来事もありましたが、今月から新しいスタートを切って歩むに当り、「イエス・キリストに焦点を置く教会とは何か」についても、学んで行きましょう。
「マタイによる福音書」の書き出しは、ユダヤ人にとっては信仰の父、民族の父であるアブラハムからの系図が記され、国が栄えた時の王、ダビテに繋がり、ダビテの子孫から救い主、キリスト(神から油注がれた救い主)が与えられるという、約二千年に亘る信仰の系図となっています。そのような「救い主に至る系図の流れ」の中に、「神の人間への扱い」について、次の2つの事が示されています:
(1)神の約束の確かさが示される: 本日の聖書箇所の「2節」には、「アブラハムにイサクが生まれ」と記されています。それはアブラハムが100才で、妻サラが90才の時ですから、奇跡的な事でした。「3節」、タマルに子供が与えられた経緯も、人間的にはあきらめても仕方ないような中、タマルの子孫を残したいという熱望に、神は応えて下さいました。また、「5節」のサルモンとラハブの出会い、ボアズとルツの出会いも奇跡的でした。「16節」、マリヤは、からイエスが生まれたいきさつの中にも、その命が日の目を見ない可能性がありました。神様は、人間の側で、約束をあきらめるような、また忘れてしまうような事態になっても、その約束を覚え、成就に至らせてくださる方です。
(2)神のあわれみの豊かさが示される: ユダヤ人の系図は、男の系図が基本となっていますが、本日の聖書箇所に記される系図には、5人の女性が例外的に示されています。その5人の女性は、それぞれの深刻なトラブルを抱えていました。タマルは、売春婦の振りをして舅であるユダからパレスとザラを産みました(「3節」参照)。ラハブは外国人であり、元売春婦でした。ルツも敵国人とも言えるモアブ人が夫と死別し、イスラエル領内に移住し、再婚としてボアズと結婚しました。ウリヤの妻によってソロモンが生まれた。」は当時の最高権力者と半ば強引に肉体関係を持たされ妊娠し、夫は不審の死を遂げ、生まれてきた子は死ぬということを経験します。また、マリヤは、婚約者の子ではないイエスを聖霊によって出産しました。この系図は、保守的なユダヤ人の結婚式に読まれるような血統にの純粋性を現すものでもはありません。むしろ、神が、罪で苦しんでいる罪人の流れの中に入って下さり、十字架による贖いで救って下さるという憐みが示されている系図でもあります。神は、罪人の痛みを放っておかず、救い主との出会いへと導いて下さいます。です。
「イザヤ書9章6-7節」には、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とありますが、マタイの福音書の始めの系図は、まさに万軍の主の熱心をそこから読むことのできる、系図であるということです。私たちの人生の中にも、罪の結果の苦しみがあったことでしょう。しかし、それらは無駄でなく、イエス・キリストを心に迎える準備ともなりうるのです。そして、万軍の主の熱心に呼応する信仰が芽生えた時、罪の結果の苦しみは、マタイの記した系図のように、救い主へ至る一すじの流れに不可欠な出来事として、捉えなおされるのです。アーメン。
2007年7月22日(日)聖日礼拝では、中島光成牧師が、「マタイの福音書1章18-25節」から、「神が共におられる生活」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所には、イエスと名付けられる救い主が、ヨセフの婚約者、処女マリヤから誕生することが記されています。また、救い主の誕生は、既に、「イザヤ書7章14節」にも預言されているように、「神は私たちと共におられる」という意味の「インマヌエル」と呼ばれるお方の誕生であることも示されています。天地万物を創造された神は、今から約2000年前に、聖霊によって処女マリヤに受肉して人となられ、永遠の神として、「世の終りまで私達と共におられる」(マタイの福音書28章20節)ということも約束されています。これ以上重要な出来事はありません。ですから人類歴史は、救い主の誕生の前後で区切られているのです。今日は「神が共にいて下さる生活」について、3つの事をお話しします。それは、(1)「問題がある生活」;(2)「導きがある生活」;(3)「使命がある生活」の3つです。
(1)「問題がある生活」: 私達は、時々、自分は神を信じているのに、どうしてこんなトラブルばかり続き、何故大切な問題が解決されないのかとか、自分は祈っているのに神は自分が期待するような答えを下さらないというように悩むこともあります。でも、それは誤解です。神を信じたら、すべてが神によって解決されるというのではありません。祈ったらいつも、その通りになるというのでもありません。神と共に歩む時、トラブルもあるのです。何故ならば、この世は、欲と力を原則として動く世界で、神の御心とは全く違います。神の御心は、与える愛、犠牲の愛であり、無力になって、この世の権力を打ち破るのです。私達が神と共に歩む時、トラブルがあるように、イエスさまの地上での歩みでも、トラブルがあったのです。マリヤもヨセフも、神を信じる敬虔な信者でした。でもマリヤの処女懐胎を、ヨセフの側から見ると、自分の子ではない子を宿しているマリヤと、これからどのように交際するかということで大問題を抱えました。神は、大切なイエスを、マリヤとヨセフに託されたのです。しかし、本人二人にとっては、大きなトラブルで、どのようにしてそのトラブルを処理して行くかについて悩みました。このように、「神が共にいて下さる生活」には、この世においては「問題がある生活」となることもあるのです。
(2)「導きがある生活」: マリヤとヨセフは、マリヤの処女懐胎という問題を抱えながらも、神の導きを待ち、神を見上げ、信仰の歩みを続けて行きました。すると、天使がヨセフの夢の中に現れ、事の次第が説明され、恐れないでマリヤと結婚し、神と共に歩むようにと励まされ、導かれたのです。神様は、問題も私たちに与えますが、解決への導きも確かに与えてくださいます。
(3)「使命がある生活」: マリヤとヨセフには、救い主を育てるという使命が神から与えられたのです。神は、私達と共にいて下さり、使命がある生活を与えて下さるのです。マリヤとヨセフはも、神からの使命を戸惑いつつ、しかし受けて喜んでいます。「ルカの福音書1章」には、マリヤが神から受けた救い主を生んで育てるという使命を受けて、喜んでいる詩も記されています。私達クリスチャンもイエスの名前を付けられた存在で、私達の中にもイエスが誕生されているのですから、責任を持ってイエスを育てて行くことを、神は期待されています。
「まとめ」: 神と共に歩んだヨセフは、正しい人であり(19節)、優しく考える人であり(19節)、深く考える人であり(20節)、従う人であり(24節)、自分を制する人でした(25節)。ヨセフは、神と共に歩むことによって、そのように変えられたのでしょう。神が、ヨセフとマリヤに与えたイエスを育てて行くという使命と同じような使命が、私達クリスチャンにも霊的な意味で与えられているのです。私達が、神と共に歩み、神に従って行く時、世にぶつかりますが、神に導かれて行く生活の中で、イエス・キリストの御名が崇められるようにという大切な使命が与えられるのです。「ローマ人への手紙8章28節」に示されるように、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」ということです。イエス・キリストが崇められるようなお互いでありたいと思います。アーメン。
2007年7月29日(日)聖日礼拝で、マックレア、マーク先生が、「IIコリント5章14-21節」を中心聖句とし、「キリストの使者]と題して、英語でメッセージを取り次いで下さり、中島光成牧師が日本語で次のように伝えて下さいました:
イエス・キリストは、神の子、王の王ですが、地上で人の子となって、人に仕え、神に仕え、「人の子には枕する所もありません」(マタイの福音書8章20節)という生活を送られました。また、「IIコリント5章21節」に示されるように、イエス・キリストは、罪なきお方でありながら、犯罪人と共に十字架で死んで復活され、人類の罪の贖いの為に身代わりになって下さったのです。私達クリスチャン達も、嘗ては皆、死に至る罪の存在でしたが、その罪を悔い改め、主イエス・キリストを救い主と告白する信仰に入り、イエス・キリストによって罪赦され、義と認められ、神との和解が成立し、「新しく造られ」(IIコリント5章17節)、すべてが新しくされたのです。そのように新生された者達は、永遠の命が与えられ、キリストの愛の力で、神の国へ導かれるという約束を戴いているのです。そして、救われたクリスチャン達は、一人一人が、まだキリストを信じていない周りの人々に、「キリストの使者、大使、使節、代表」となって、神との和解の福音を伝えて行くという使命が与えられているのです(IIコリント5章18節、20節)。
イエスさまは、大きな教会の牧師として来られたのではなく、「神の子」の権威をもって、この世に来られ、世の権威者、宗教家達に敵対されたのです。そして、イエスさまが使徒としてお選びなった12名の者達は、教育を充分に受けていない者、漁師、取税人などで、人々から嫌われ、行動を共にしたくないと思われている人達でした。また、イエスさまの復活後にキリストの使徒となったパウロは、以前は、キリスト者迫害のリーダーでした。このようなキリストの使徒達に対して、イエスさまは、「あなたがたは、世の光です。」(マタイの福音書5章14節)と言われ、「あなたがたの光を、人々の前で輝かせ、あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイの福音書5章16節)というような使命を与えたのです。
「キリストの使者」とは、「ヨハネの福音書15章」に示されるように、「ぶどうの木」であるイエス・キリストに繋がっている枝であるクリスチャンであり、イエス・キリストの愛の中に留まり、その愛の力で、きよめられながら、実を結び、互いに愛し合うことです。また、「Iコリント12章27-31節」には、私達クリスチャンは、キリストの体の一部であり、一人一人は、そのキリストの体の各器官としての役割、使命が与えられており、それぞれに与えられた賜物を生かして、キリストの働きの役割分担を果たして行くことが示されています。= = この後、3-4名ずつのスモール・グループに別れ、約15分間の分かち合いの時を持ち、「ローマ書12章6-8節」、「第一ペテロ4章10ー11節」、「Iコリント12章27-31節」などを輪読し、お互いに示された賜物を話し合った後、一同が席に戻りました。= =
「Iコリント13章」に示されるように、全き愛こそ、キリストの体である教会を建て上げて行く鍵であり、和解の福音を分かち合って行く鍵なのです。「ルカの福音書4章14−19節」には、イエスさまの説教として、「イザヤ書61章1節」を引用しながら、貧しい人々への福音伝道が強調されたことが記されています。また、「マタイの福音書7章21-23節」は、「天におられる父なる神のみこころを行なう者が、天の御国に入る」という希望が与えらることを記しています。私達クリスチャンは、「キリストの使者」として、主イエス・キリストの愛の中にあって、主に仕えて行き、日々きよめられながら、和解の福音を、すべての人々に伝えて行く使命を果たして行きましょう。
光岡恭平通信員