2007年6月3日(日)聖日礼拝では、サンデイエゴ日系人キリスト教会の吹上信一師が来て下さり、「ヘブル人への手紙12章1-3節」から、「イエスを仰ぎ見つつ」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
先ず「本日の聖書箇所の2節」は、「口語訳聖書」では、次のように始まっています: 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」このみことばは、私達が、イエスに目を向けないで、牧師や他人や自分だけを見ているのではなく、いつも「イエスを仰ぎ見つつ」進んで行くという信仰生活のあり方を示しています。そのみことばに聴き従うことによって、私達の信仰生活が、困難や苦しみに遭っても、勝利に導かれ、やがて神の国に入るようになり、祝福されるのです。「ピリピ人への手紙」にも示されているように、私達クリスチャンは、へりくだり、自分を義とするようなことなく、自分の思い通りに事を運ぶのではなく、キリストの心を心として歩み続けて行きましょう。
また「新改訳聖書」では、「本日の聖書箇所の2節」は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」というみことばで始まっています。「マタイによる福音書14章22-36節」には、「主イエスさまから目を離さなければ安全である」ということが、次のように示されています:「主イエスさまは、ガリラヤ湖で水の上を歩いて、弟子達が乗っている船の近くを通られたという奇蹟を示されました。そのイエスを幽霊と間違えて恐れた弟子達に、イエスは”私だ。恐れることはない。”と仰せられました。すると、ペテロは、イエスにお願いして、[ここまで来なさい]と言って戴き、水の上を歩いてイエスの方に行くことが出来たのです。しかし、そのペテロが風を恐れて、イエスさまから目を離した時、沈みそうになって、主が救って下さったのです。」また、「ローマ人への手紙8章28節」に示されるように、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知ってる」ということです。私達は、イエスさまから目を離さず、イエスさまを愛して、進み続けて行けば、全てが益に変えられるのです。更に、旧約聖書時代のイスラエルの民が、カナンの地に入る前に、モーセは、12人の斥候をカナンに遣わして、調べさせた時、ヨシュアとカレブだけが、「神(イエス)から目を離さず」、堅く信仰に立ち、イスラエルの民が主の御心にかなえば、乳と蜜の流れるカナンに導き入れられるということを力説しました。しかし、他の10人の不信仰な斥候員達からは、とてもカナンを占領できないと言い張り、多数がそれに同意してしまい、その後40年に亘って、荒野の旅を続けることになったのです(民数記13-14章参照)。「ヨシュア記1章5-7節」には、「神が、モーセと共にいて下さったように、神は、ヨシュアと共にいて下さるので、”強くあれ、雄雄しくあれ”と、神に励まされた」ということが記されています。
次に、「本日の聖書箇所の3節」には、「私達は、弱い人間で、意気そそうしてしまい、どうしようかと悩むこともあるでしょうが、そんな時こそ、[イエスさまを仰ぎ見る]ことによって、心からの希望が与えられる」というような事が示されています。ダビテも、「詩篇」で、自分が、サウル王から疑われ、殺されそうになっって、苦悩を重ねていた時、「主は、私の魂を生き返らせ、義の道に導かれ、死から救って下さり、正しい道を歩むように導いて下さることに感謝し、主を讃え、主を崇める」ということが詩で表現されています。これは、正に、ダビテが、苦難に遭っても、「イエスを仰ぎ見つつ」進んで行った証拠です。
更に、「本日の聖書箇所の1節」に、「いっさいの重荷と、からみつく罪をかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」と示される事を見て行きましょう。「マタイによる福音書11章28節」にも、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたを休ませてあげよう」といわれたイエスさまのみことばが記されています。私達が、自分では捨てきれないと思っている、どんな重荷でも、罪の重荷でも、今も生きておられるイエスさまが身代わりとなって、すべての重荷、罪からも解放して下さるのです。私達の信仰があまり成長して行かず、喜びに導かれていない原因は、どこにあるのでしょうか。それは、その原因が、自分にあるという謙虚さに欠けているからであることを覚えておきましょう。
最後に、「ヘブル人への手紙3章12-15節」に示される「互いに励ましあい、心をかたくなにした不信仰な人を励ますこと」、「ヘブル人への手紙10章19-25節」に示される「きよめられたのだから、神に近づくこと」、「ヘブル人への手紙13章5-8節」に示される「きのうも、きょうも、いつまでも同じイエス・キリストを信じる信仰に生きること」に、心を留め、「イエスを仰ぎ見つつ」信仰と希望と愛の道を、力強く進み続けましょう。
2007年6月10日(日)聖日礼拝では、サンデイエゴ日系人キリスト教会の大倉信師が来て下さり、「出エジプト記2章11-25節」から、「神の思いは遥かに高く(Our God's thought is far higher than ours)」と題して、次のように、メッセージを取り次いで下さいました:
本日の聖書箇所の始めに示されていることは、エジプトにいた1人のヘブル人男性モーセが、苦役の奴隷となった同胞ヘブル人の1人を打ち叩いている1人のエジプト人に怒りを燃やし、そのエジプト人を殺した出来事です。これはモーセが40才の頃の出来事です。モーセはエジプトでヘブル人レビ家の子として生まれた時は、エジプト王パロの命令で、「ヘブル人からの出産男子は、指名された助産婦によって直ちに殺されるべきだ」という対象になっていました。でもモーセは、生まれた時に殺されず、生後3ヶ月間も両親によって隠されていました。しかし、それ以上は隠し切れなくなったので、防水加工された籠の中に入れられ、ナイル川の岸辺に隠され、モーセの姉に見張られていました。すると神の不思議なご計画によって、エジプト王パロの王女がナイル川で水浴びをしている時に、その籠の中のモーセを見つけたのです。その時、モーセを見張っていた姉の機転が働き、実の母親が乳母となり、王女からの報酬も受け取りながら、幼子モーセは、母親の保護の下に入れられ、自分の素性も知らされたでしょう。そしてモーセは、王女の息子として受け入れられ、初めて「モーセ」と名付けられ、王宮で育てられ、当時世界最高水準の学問や王子となる教育も受け、幅広い教養と指導力も身につけ、体力もついて行き、イスラエルの民を救うリーダーとしての「第一段階の備え」が培われ、40歳の壮年期となりました。しかし、上記にように、同胞のヘブル人を打つエジプト人を殺したのです。その翌日、同胞のヘブル人同士が争っているのをモーセが見て、諫めたら、既にそのヘブル人たちに、モーセがエジプト人を殺したことが知れ渡っていることを聞き、恐ろしくなり、直ちにミデヤンの地に逃亡しました。すると直ぐにその地で出会ったチッポラを妻に迎え、ゲルショム(「私は外国にいる寄留者」という名前の男の子)が生まれました。そのようにモーセの40才頃までに現された神のご計画は、「使徒行伝7章17-29節」に記されるステパノの説教にも示されています。
「本日の聖書箇所の23-25節」には、モーセの40才頃から80才頃まで、「40年間に亘って、逃亡者として、ミデアンの荒野での羊飼い生活」が圧縮されて示されています。モーセは、ただ羊飼いとして、昼は燦々と照りつける太陽の下で羊を養い、夜は野外で野宿することもあり、これでは「無駄な骨折り生活」であると嘆いたこともあったでしょう。でもこのモーセのミデアンでの40年間は、次の80才から120才までの40年間、イエスラエルの民をエジプトからの脱出に導き、荒野の旅路を導くための、モーセにとっては、「神による備え」という「第二段階の備え」が培われたのです。その前の40才頃迄の「第一段階の備え」では、モーセは、勇気があっても、自分の力だけに頼り、神に全幅の信頼を置くことなく、神の視点で物事を見ることが出来ず、この世の最高の教育を受けても、失敗の人生でした。しかし、モーセの40才頃から80才頃までの40年間に亘る、「第二段階の備え」であるミデアンでの逃亡生活では、神からの教育を受けて、自我が砕かれたのです。そして、「エジプト人に忌み嫌われている羊飼い」(創世記46章34節)の生活によって、性急なモーセが、羊と共に、柔らかに歩んで行く事を学んだでしょう。この40年間のミデアンの羊飼いとしての実際経験による学びによって、やがて、80才頃から始まるイスラエルの民数百万人をエジブトからの脱出へと導くリーダーとして必要な忍耐力が、最高水準の学力に付け加えられたのです。「詩篇77編20節」には、「神は、イスラエルの民を、モーセとアロンの手によって、羊の群れのように導かれた」ということが記されています。また、「民数記20章3-8節」には、「イスラエルの民が水がないことでモーセとアロンに逆らった時、2人は神に祈ったら、神から「会衆の前で岩に命じれば水が出る」と仰せられ、神のあわれみを受けました。このように、モーセは、自分では自分の思うようには行かなくても、40年間に亘るミデアンの荒野で培われた神と向き合った対話の信仰によって、神に導かれて行ったのです。それは、モーセが、単なる机の上だけの学びだけではなく、ミデアンの荒野で羊飼いとして、忍耐強く羊を育て、その羊から乳製品、皮製品の製造し、物々交換をし、更に、エジプトでは何も学べなかった言葉や人格も学び、静寂な環境の中で、神と向き合って行くことを学んだのです。これは、正に、「神の思いは遥かに高い」ということが示されています。
モーセは、80才になって、そろそろ体が衰えて来ている頃、神に呼び出され、神に用いられ、「出エジプト」という壮大な仕事が神から託されたのです。「ローマ人への手紙8章28節」に示されるように、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ということです。モーセも、信仰者となって、神がすべてのことを働かせて益として下さることを信じ、神の導きに聴き従って歩んで行ったのです。私たちも、イエス・キリストを信じるクリスチャンとして、主のあわれみと恵みに感謝し、神のご計画の中にあって、主のみことばに聴き従って歩み、日々キリストの愛によってきよめられ、主の栄光を仰ぎつつ歩んで行きましょう。
2007年6月17(日)聖日礼拝では、サンデイエゴ日系人キリスト教会の本多一米師が来て下さり、「ヨハネの手紙第一3章1-10節」から、「神の子として生きる」と題して、次のように、メッセージを取り次いで下さいました:
今日は、「父の日」です。「地上の父」を思い、また「主イエス・キリストを通して」、「天の父なる神」を思い、知り、感謝し、お祈りましょう。そして私達が、「神の子として生きる」とは、どんなことかについて、その「発端」と「成長」と「特徴」についてお話ししましょう。
「神の子として生きる発端」: 私達は、どのようにして、「神の子」とされるのでしょうか?それは、「本日の聖書箇所の1節」に記されているように、先ず、「父なる神の愛」を知ることです。そのためには、私達の主であられるイエス・キリストの愛を通して、父なる神の愛を知ることから始まるのです。そのことは、「ヨハネによる福音書15章9-10節]に示されている通りです。そして、「ヨハネによる福音書1章12節」にはっきりと示されているように、神は、「この方(主イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子とされる特権をお与えになった」のです。このように、私たちが、「神の子」とされるということは、「私達が、主イエス・キリストの愛を通して、父なる神の愛を知り、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に入り、罪赦され、義と認められ、新しく生まれ変わって、”神の子”とされる」ということです。
「神の子として生きる成長」: 「神の子」という特権が与えられた者が、「神の子として生きる成長」は、「本日の聖書箇所の2-3節」に示されているように、「神の子」は、いつも神に焦点を置き、神のみこころに従って、望みを抱いて生きて行く者です。そのように、いつも神に焦点を置き、神に目を向けて行き、サタンの誘惑に負けることなく、的外れの生活になるような罪は皆、聖霊によってきよめて戴き、きよくなり、自分をきよく保って行くことによって、キリストに似た姿へと変えられ、信仰が更に成長して行くということです。でも、その成長が完成するのは、主イエス・キリストが、地上に再臨される時です。それは、「ローマ人への手紙8章29-30節」にも示されるように、「信仰によって義と認められた人々には、神は更に栄光をお与えになり、神が期待されるような、神に似た姿として生きることを確信するように導かれている」ということです。
「神の子として生きる特徴」: この特徴は、3つに大別されますが、互いに関連し合っている特徴で、それは、既に上記の「神の子として生きる成長」に示されているように、@ 「神に焦点を置く」、A 「きよく生きる」、B 「神を愛し、隣人を愛す」ということです。では、その特徴を見て行きましょう:
@ 「神に焦点を置く」: 「神の子」は、いつも神に焦点を置き、いつも神に目を向けて生きて行き、的外れな罪に焦点を置くことがないようにするということです。「本日の聖書箇所9節」に示されるように、”神から生まれた「神の子」は、「神の種」がその人のうちにとどまっているので、罪のうちを歩む事が出来ないのです。”
A 「きよく生きる」: 「コリント人への第二の手紙5章21節」には、「罪なきお方、イエス・キリストが、人類の罪を背負わされた」ということによって、私達が、そのお方に助け導かれ、きよめられ、きよくなり、義を行なう者に変えられ、証しするするようになるのです。
B 「神を愛し、隣人を愛す」: 「ヨハネによる福音書13章34節」には、「わたし(イエスさま)があなたがた(弟子達)を愛したように、あなたがた(弟子達)も互いに愛し合いなさい。」ということが、「イエスさまの新しい戒め」として示されています。このような愛の行為は、きよめられて、義を行なう者、証しする者によって現されて行くのです。
私達は、神が、ご自分の命までも裂いて、愛をもって、人類を救いに導き、義と認めて下さり、「神の子」として受け入れて下さったことを覚え、感謝します。更にその「神の子」を、日々きよめて下さり、私達が、「神の子」として、日々、愛の行為をもって、義を行って行き、証しをして行き、栄光の神を仰ぎつつ、心から神に感謝し、喜びをもって讃美を捧げ、神に似た栄光の姿へと変えられて行くことを感謝しましょう。そして、これからも、益々、愛をもった、力ある「神の子」として生きて行きましょう。
2007年6月24日(日)聖日礼拝では、サンデイエゴ日系人キリスト教会の吹上信一師が来て下さり、「詩篇23編1-4節」から、「死の陰の谷を歩むとも」と題して、次のようなメッセージを取り次いで下さいました:
今朝、私が目を覚まして時計を見ると、4時44分でした。この「444」という数字は、「死ね、死ね、死ね」と読める数字ですが、この「死」とは、「肉体的な死」ではなく、「あなたに死ね」というように示され、「自己に死ぬ」とうことが出来るようにとお祈りしました。私は、何時死んでも不思議でない年で、手を見れば年がわかりますが、気持ちは若いです。でも残された人生が、あと何年かはわかりません。何時、神に召されても、神のもとに立てる準備をし、今日一日を大切に生きて行き、死に至るまでの道程をいかに生きるべきかについて、絶えず示されています。
「詩篇23編」の作者であるダビテは、神と人との関係を、羊飼いと羊にたとえ、「主は私の羊飼い、牧者」であり、「主は私が必要なものを全て与えて下さり、私は恵まれており、たとい死ぬような逆境に遭っても、試練に会っても、主が共にいて下さるのでわざわいを恐れない」ということを記しています。ダビテは、ゴリアテを倒して勝利し、サウル王に認められ、更に敵に勝利し、人々が、「サウルは千人を打ち、ダビテは1万人を打った」と言うのを聞いたサウロは、ダビテを妬み、槍で何回もダビテを殺そうとしたのですが、神がダビテを守ったのです。また、息子のアブサロムがダビテに反逆し、ダビテは命からがら逃げた事など、数えきれないほどの死の危険に出遭いましたが、神に守られたのです。このようにダビテは、いつも主が共にいて下さり、主に守られ、溢れるばかりの恵みを戴いたのです。私達も、「ヘブル人への手紙12章2節」に示されるように、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目をはなさないでいましょう。そうしますと、病の時でも、健康な時でも、また、たとえ、死の陰の谷を歩んでも、主イエス・キリストが共にいて下さり、死んだ後も、主が共にいて下さることを覚え、死は不幸ではないと確信出来るのです。
「黙示録14章13節」に記されているように、「主にあって死ぬ者は幸いである。−− 彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」と記されています。即ち、主イエス・キリストを信じて救われた者は、主との交わりの中にあって生き、死ねばキリストと共にいることが出来るのです。また、「黙示録21章4節」に記されているように、「千年王国の後に開かれる新天新地には、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみなどがありません。」私達は、死ぬと、生まれた姿で天に帰って行き、何も持っては行けませんが、私達が神のためになした奉仕時間と業は、天国までついて行き、報いを受けるのです。
本日は、聖餐式もありますので、イエスさまの死についてもお話ししましょう。イエスさまは、罪もけがれも全くないお方でしたが、私達の罪の贖いのために、身代わりとなって十字架に架かって下さり、十字架上での苦しみの中で、7つのおことばを発せられました。その第4番目のおことばは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイによる福音書27章46節)という悲しみの叫びで、人間の罪がどれだけ大きいものであるかを、はっきりと示すおことばです。当時、イエスさまが十字架につけられるようになると、弟子達も離れて行き、人々からは罵られ、父なる神からも見離され、一緒に居ては下さらず、父なる神からも捨てられたのでした。このイエスさまの十字架上での第4番目のお言葉は、正に、罪なきお方イエスさまが、私達人類の罪の身代わりとなって、私達が罪のために神と断絶させられるように、イエスさまも神との断絶があったことを、十字架上ではっきりと示された叫びでした。「聖歌399番: カルバリやまの十字架」で歌われるように、「カルバリの十字架でのイエスさまの死は、わがためなり」ということが示され、イエスさまは、十字架上で、最後には救いが成就して、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」(ルカによる福音書23章46節)という「十字架上の第7番目のおことばを発せられ、息を引き取られたのです。聖餐式でのパンは、イエスさまが十字架上で引き裂かれた御身体を象徴しており、ぶどうジュースは、イエス様が十字架上で流された血潮を象徴しています。イエスさまを信じて救われた方々は、前に進み出で、聖餐に預かり、パンとぶどうジュースを戴き、イエスさまの十字架上での死は、私の罪の贖いのためであったことを覚え、改めて感謝を捧げ、主を崇め、讃美しましょう。= = この後、吹上信一師の司式によって、聖餐式が持たれました。 = =
光岡恭平通信員