2006年3月5日(日)の聖日礼拝で、山口光師は、「出エジプト記20章1-17節」から、「父母を敬いなさい」題し、次のようなメッセージをされました:
ライフウェイ教会での礼拝がはじまりました。日本には四季がありますが、ここには神様のシーズンがあります。教会暦では今月から受難節というイエス様の十字架の道をたどるシーズンがはじまります。また私たちの教会にとっては、新しい場所での新しい時代が始まるのです。2年前のこの時期に上映されたパッションという映画を思い出します。あの映画は監督のメルギブソンがこの時期でなければならない映画として作成したと聞きます。神様の側にもこの時期でなければならないというものがあります。私たちには事の全てが把握できなくても、神様はその時その時にこの時でなければならないという理由で私たちに関わります。教会としても今日からここではじまる礼拝の理由がやがて神様から知らされる時がくるでしょう。しかし今覚えておきたいのは、私たちは、皆神様のシーズンの中で呼吸しているということです。四季の様に肌で季節を感じられないかもしれない。しかしあなたの心の皮膚で、神様の季節を感じて下さい。神様のシーズンの中で生かされていると感じることは、大きな恵みであり喜びなのですから。
モーセの律法は、天の父なる神様から、地の諸々の子なる私たちへの教訓です。教訓とは、父との関係がこじれた子供には、単なる束縛にしかすぎません。しかし父と和解し、関係を回復した子供には尊い教えとなるものです。今日の十戒の第5戒は、私が子供の頃に聞いた最初の御言葉かもしれません。また私が救われるまで、ずっと私を束縛してきた御言葉でもあります。私をこの束縛から解放して下さったお方がイエス様です。知って下さい。律法を完成し、私に正しく父の御旨を語れる者は、神様と平和を築いた子供だけです。その最初の子供がイエス様です。そして最初に神様の言葉に束縛された子供がアダムです。私たちがもしアダムのように、父なる神様との親子関係を罪によって壊しているならば、まずはもう一度、父の最初の言葉に立ち返るべきです。それは十戒を語る時の神様の「私はあなたの神。あなたを(罪)の奴隷の家から救い出した神である。」(出エジ20:1)という言葉です。十戒の前半の言葉は、神様との関係の回復のためにありました。この回復なしには、十戒の後半には進めません。
エペソ書5章2〜3節:パウロは、この十戒の第5戒が、隣人との関わりにおける最初の戒めであると述べています。『「あなたの父と母を敬え」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする」という約束です。』私たちにとり、最初の隣人、となりの人は、両親です。父母との関係は、生まれた時に始まり、あなたの生涯の終わりまで続く関係です。その途中に様々な人間関係を私たちは持ちますが、最初で最後の隣人は、父母だといえるでしょう。その上で父母を大切にすることは、人間として、最初の戒め、ルールとなったのです。
ところで十戒の言葉は本来大人に向けて語られたメッセージの様ですから、大人向けに私も語らせてもらいましょう。十戒は父から子への、大切な教えです。つまり神様の目には私たちは子供同然で、その立場をわきまえて十戒の教えを聞くべきです。しかし第5戒に入ると私たちは神様との親子関係、主従関係を忘れてしまい、御言葉への畏敬の念を欠いてしまうのです。すると大人は「父母を敬いなさい」という御言葉を自分の権威を振りかざす道具とし、子供を服従させてしまいます。けれども神様の御心は、あなたが傲慢になるのではなくて、むしろ主の前であれあなたの子供の前であれ、あなたが神の子として謙遜に従順に生きよ、とそこに置かれます。そして神の前に畏まる親の生き方が子供に尊敬の念を抱かせるのです。力づくで敬服させる時の十戒の引用は御言葉の乱用になるでしょう。
神様の口から「父母」という言葉がでるときに、それは成人したあなたが、どんな少年、青年時代を送ろうが、やがて親として子供を養う「機会、特権、責任、または喜び」を得るという意味です。あなたがこれまでどのように愛されて育てられてこようが、あなたは今度は育てる、愛する側に立つという意味でもあるでしょう。だから愛を受けっぱなしの大人ではいけません。今日本当の愛に飢え乾く大人は沢山います(私も乾く時があります)が、あなたは大人であり同時に神様の目には子供なのですから、神様から愛をもらって生きられるのです。そうやって神の愛にすがりながら、初めて子供を育てていけるのかもしれません。あなたの愛のなさゆえに、子供をいらだたせてはいませんか。いらだつ子供を今度は、あなたが「親を敬え」と力づくで従わせてはいませんか?
パウロは十戒の第5戒を踏まえて、エペソ教会の親たちに言いました。「父たちよ。あなたがたも子供を怒らせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」子供は自分の命を見つめ、生きようとします。そして神様を見つめようとします。その成長が邪魔されるとき、子供はいらだちを覚えます。パウロは親であるあなたが、子供のそのような成長を妨げてはならない、と言います。
あなたは親となっても完全なものではありません。神の前にそれを認め、神の子供となってあなたは謙遜と服従の心を学ぶことが必要です。御子イエスは、そういう意味で謙遜と服従のお方でした。父なる神の前に彼自身は、自分の思いを通すことはせず、十字架の死にいたるまで従順でした。父の指示は子供には時々理解ができません。父の言葉が子供には不合理に感じる時もあるのです。父なる神の十字架の要求は子たるイエス様にはまさしく不合理な苦い杯でした。イエス様は、けれどもそれを自分のためにではなく、周りの者を、あなたと私を、生かすためにと父の指示に従ったのです。さて、今日の大人は、この苦い杯を放棄しています。自分が苦しむのはいやだ。誰かが飲めば済むことだという態度をとります。そして大人の私は苦い経験をすでに通ったのだから、若い者に苦い杯を飲ませようと言ってしまいます。こういう自分勝手な大人があまりにも増え過ぎて、子供に異なるメッセージを与えています。今日、謙遜とか服従とかいう言葉には、ネガティブな意味がつくのは、そういう大人たちが増え、彼らが率先して隣人のために汗を流そうとか、神様のために自分が働こうとかしないゆえなのです。
十戒の第5戒を受けるときに、私たちは本当の意味で、謙遜になり服従する神の子供となる必要があります。これがしいては、長生きの秘訣でもあるのです。神様はあなたが父母を敬うことにより、あなたが幸せになり長生きをすると約束しています。残念ながら、神様はあなたが父母を敬うことによって、彼らの命をのばせるとは、約束してはいません。けれどもあなたが幸せになり健やかになれば、それはあなたの父母の幸せにもつながるのは言うまでもないことです。
神様はあなたがたを親として下さるとき、親でない方は他人事だと思わないで下さい。親とは養い育てる人です。あなたの家族の中に、教会の中に、神様はあなたが誰かを「育てる人」「養う人」として置いています。あなたはもう受けるばかりの人であってはなりません。キリストの愛をだれかに注ぎ、その愛をもって養って下さい。それが信仰の親としてのあなたの責任であり、これは親としての喜びともなるでしょう。私たちの教会に信仰の子供たちを増せるように、そのために私たちが親となり、また私たちがもっと謙遜で従順な神の子供とされていこうではありませんか。
3月12日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記20章1-17節」から、13節の第六戒と14節の第七戒を中心聖句として、「殺すなかれ。姦淫するなかれ。」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
十戒の初めの4つの戒めは、神との関係における戒めで、続く6つの戒めは、隣人との関わりにおける戒めです。十戒は、神から人への教訓で、警告です。でも、それは、父が子に警告する時、父の心には、その子が幸せになって欲しいという気持ちが支配しているのと同じように、神は、人が幸せになって欲しいので、十戒をモーセを通して私達に与えて下さったのです。従って、神が、「殺すな。」と言われたことは、「人を生かす者となれ。」ということです。また、神が「姦淫するな。」と言われたことは、「夫婦は円満であれ。」ということです。
神は、天地万物の創造の6日目の最後に、人を、神と人格的、有機的な交わりを持てる、最も素晴らしい生き物として、地上に創造し、人が、動植物の命を治め、養い、愛をもって育むというように、特別の任務を人にお与えになりました。そして、十戒の第六戒で、「人、隣人を生かす者」になるようにという戒めを示されたのです。その戒めは、エジプトでの厳しい奴隷生活から解放され、その時既に、奴隷の主人となっているイスラエルの民に示され、奴隷をも生かすという模範者となるようにと諭されたのです。
イエスさまによる「十戒」の解釈は、山上の説教でも示されています。「マタイの福音書5章21-26節」には、イエスさまによる、十戒の第六戒の解釈が示されています。そのみことばによれば、イエスさまは、「”人を殺す者”とは、兄弟に向かって”腹を立てる者”、”能なし。”とか、”ばか者。”などという者であり、そんな者は、ゲヘナに投げ込まれます。」と警告されたのです。「創世記4章」に記されるように、人類最初の喧嘩は、神から離れた兄カインが、神に喜ばれた弟アベルを妬んだという兄弟間で起こり、兄カインは、弟アベルを嫉妬して殺してしまったのです。そして、そのような兄弟間の喧嘩から、更に、友達や仕事仲間などとの喧嘩に発展していったのでしょう。一方、血の繋がった兄弟姉妹とか父母と関係でも、また、血縁関係のない義理の兄弟姉妹、義理の父母との関係でも、また、イエス・キリストにある兄弟姉妹の関係でも、神にある愛によって、いつも和解し、麗しい関係となっているのです。嘗ての太平洋戦争では、日本と米国は敵対関係にありましたが、今は、愛し合う兄弟関係にあります。また、今は、米国とイラクは敵対関係にあり、イスラエルとパレスチナとは敵対関係にありますが、いずれは兄弟関係となるよう、祈って行きましょう。
クリスチャンは、この世ににあって、イエスさまから示されたように、地の塩、世の光となって、迫害する者のために祈り、敵を愛して行くことが示されているのです。イエスさまは、十字架に架けられ、人類の罪の贖いのため、身代わりとなって、舌という剣と、物の剣で殺されて死にました。私達は、そのようなイエスさまの十字架の愛を受けて、「人、隣人を生かす者」となって行きましょう。
次は、十戒の第七戒となっている「姦淫するな。」という「夫婦円満」について考えてみましょう。2005年6月1日に結婚80周年を迎えた、105才のパーレー・アロー・スミスとその妻、100才のフローレンスは、イギリス南西部のテレフィールに住み、その前日の5月31日、フローレンスはBBSテレビで出演し、「夫婦円満」な秘訣は、”ごめんなさい”と言う事を怖がらないことです。」と話しています。
夫婦の間での会話が断絶するということは、神との会話も断絶することです。ダビテが、そのよい例です。ダビテは、一夜で、姦淫と殺しという二つの罪を犯しました。イエスさまは、十戒の第七戒について、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイの福音書5章27節」)と言われました。また、「マタイの福音書5章32節」では、イエスさまが、「だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。」と言われたことが記されています。心でも、行動でも、姦淫や殺しをするということは、神の御心から外れた、的外れの罪を犯すことです。ダビテが、ウリヤの妻バテシバとの姦淫によって生まれた最初の子は、死産でした。でも、ダビテがその罪を悔い改めた後に、バテシバから生まれた子は、ソロモンで、次の王となりました。
隣人との関係で、殺しや姦淫という罪を犯した傷は、悔い改めて神に立ち返る時、癒されますが、その傷跡は残るのです。この傷跡は、私達が、神によって癒されたことを覚えるために残されているのです。イエスさまは、十字架に付けられた両手、両足への釘の傷跡のまま、3日目に復活され、その後も、その傷跡は残っていました。イエスさまが再臨され、千年王国の王となられる時、その傷跡は残っているでしょうか?イエスさまが、十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)というように、父なる神にとりなしの祈りをして下さったのです。そのように、私達を赦して下さるイエスさまに感謝し、互いに愛し合い、赦し合って行きましょう。
3月19日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記20章1-17節」から、「隣人と共に生きる方法」と題して、次のようなメッセージをして下さいました。
父なる神が、子である私達に与える「みおしえ、あかし、戒め」などと記される教訓、律法は、「詩篇19編7-8節」に示されるように、「完全で、正しく、きよい」ものなのです。また、イエスさまが強調されたように、十戒を含む律法や預言は、「全身全霊で父なる神を愛せよ」という「第一の戒め」と「自分自身のように、隣人を愛せよ」という「第二の戒め」にかかっているます(マタイの福音書22章37-40節)。即ち、十戒の第1-4戒は、「全身全霊で神を愛せよ」という「第一の戒め」が示され、第5-10戒は、「隣人を愛せよ」という「第二の戒め」が示されています。その「第二の戒め」について、先週の礼拝までは、先ず、自分が生まれた時から最も近い隣人である「父と母を敬え」という第5戒や、第6戒として、「隣人を殺さず、生かせ」ということや、第7戒として、「姦淫することなく、夫婦円満であれ」ということを話しました。本日は、その続きの第8-10戒の「盗むな」、「嘘をつくな」、「欲しがるな」という戒めについて話します。神は私達を愛するので、私達を放って置かず、毎日、私達の心も、行いも探るのです。
「盗むな」という第8戒について考えてみましょう。小さな子供も含めて人は、万引きをすることがありますが、それは、隣人への愛がなく、自分の空虚を満たす満足感を求め、或いは面白半分に追い求めてすることです。でも、その万引き後は、虚無感に襲われ、追い詰められ、孤独となるのです。群馬県のホスピスにいる竹村道雄カウンセラーは、このような万引きをした者に対する教えとして、次の3つの点を挙げています:「@どんな些細な万引きでも、それは罪であり、人との関わりでショックを与え、人との信頼関係をぶち壊してしまうものである。Aその万引きした所は、本来は、安心して物を置ける所、例えば教会などであろう。Bそのような万引きをした人に関わる時、そのことを心配する親などがいることを知らせる。神との関わりでも同じで、神は、そのように、人との信頼関係をぶち壊すような罪を心配していることを、はっきりと知らせる。」このように、私達は、神を心配させるような者にはならず、神を喜ばせる者になりましょう。
次は、「嘘をつくな」という第9戒について考えてみましょう。人は、嘘をつく時、半分くらいは真実を入れるようなこともあります。それは、「創世記3章」に記されるように、エデンの園の中央での出来事として、人類最初のアダムとその妻エバが、サタンであるへびに嘘をつかれ、騙されて、神から食べることを禁じられた木の実を食べてしまい、罪を犯してしまいました。あなたは、「偽証の父、サタン」の子ですか?それとも「真理の父」の子ですか?「ヤコブの手紙3章2-10節」には、私達が、ことば(口、舌)で失敗することを警告しています。
終わりの第10戒は、「隣人のものを欲しがるな」という戒めです。例えば、イエスさまが、十字架に架けられる1週間前に、エルサレムに入られた時、民衆は、イエスさまを「ホサナ、ホサナ」と叫んで歓迎しました。それは、イエスさまからの霊的な救いを欲して、求めた叫びではなく、イエスさまに、ローマ帝国の支配からの解放を求め、欲した政治的な叫びでした。しかも、その1週間後には、「イエスは十字架で殺せ」というような欲求に変わってしまったのです。当時のパリサイ人達や律法学者達も、表面的に律法を守れば、天国に行けると思い、心で盗みをしても、心で嘘をついても、また、心で貪り欲しがっても、それが行動に移らなければよいとして、罪を犯し、遂には率先して、イエスを十字架につけるとを、強く欲し、そのようにしたのです。
私たちは、もう一度十戒を読み直し、サタンの誘惑によってサタンの奴隷となった私達を、そのような奴隷状態から解放し、救って下さった救い主イエス・キリストと、いつも、心の中で関わりを持って行きましょう。そして、神が本当に私達を愛しておられる事を、ありがたく感謝し、全身全霊で神を愛し、隣人を愛し、隣人と共に生きて行きましょう。また、やがて、イエス・キリストが、花婿としてこの地上の私達を迎えに来られる時、花婿であるイエス・キリストにそっぽをむかれないよう、悔い改めることがあれば悔い改めて、ありのままの姿で、よみがえられたイエス・キリストに迎えられるよう、祈り、求めて行きましょう。
3月26日(日)聖日礼拝では、マックルア・マーク先生が、「コリント人への手紙第一12章3節を中心聖句とし、「By The Holy Spirit//聖霊によって」と題して、次のようなメッセージをして下さいました:
主なるイエスさまを信じるということは、理屈ではありません。本日の聖書箇所に示される、「聖霊によるのでなければ、だれも、”イエスは主です。”と言うことはできません。」という御言葉は、私達の心の状態について言っておるのです。即ち、私達の神への「信頼」という、「神様との命の繋がり」ということについて説く御言葉です。また、この御言葉は、私達の心で誰を信じ、誰に従うかによって、私達の信仰が計られるのであって、私達の口で発する言葉によってではないことも示されているのです。
先月、私は、ボブ・デイランが作詞した「人は誰かに仕えて生きる」という歌を歌いました。私達が心に留めることは、今日も同じ点においてです。皆さんは、誰に仕えて生きておられますか。人は、神様か悪霊か、どちらかにしか仕えられません。その中間はないのです。
「コリント人への手紙第一12章」には、「信仰者は、神様の霊を受けて生きる」、という「救いの確信」が記されており、それが焦点となっています。あなたが、イエスさまを自分の救い主として受け入れる気持ちがあれば、それは聖霊による導きです。私達がイエスさまを救い主として今迎える時、私達は、神様の霊を、私達自身の心の中に呼び寄せることになります。
「コリント人への手紙第一12章3-11節」を拝読しましょう。聖霊様は、イエスさまを受け入れた者に、賜物を授けます。どんな信仰者にも少なくとも一つの賜物は授けて下さるのです。その賜物は、隣人のために用いるという目的で、授けられるのです。「エペソ人への手紙4章12-13節」に記されるように、牧師の働きは、全ての教会員を等しく主の働きのために備えることです。全ての教会員は、自分に与えられた賜物を隣人のために用いることにより、初めて整えられ、教会全体が成長して行くのです。
もしあなたがクリスチャンだとしたら、聖霊は、あなたに素晴らしい賜物を少なくとも一つ与えておられます。まだそれに気付いていない人もいるかもしれません。それでも、賜物は、あなたの中に一つは存在しているのです。「コリント人への手紙第一12章31節」には、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」というお勧めが記されています。私達は、賜物を求め、その賜物が知らされたなら、それを用いて行きましょう。今日、その賜物を求めようではありませんか。そのために今日も3-4人ずつのスモール・グループをつくって、10-15分位、分かち合いましょう。
===スモール・グループ毎に分かれて、お互いに自己紹介をし、「エペソ人への手紙1-13節」と「コリント人への手紙第一12章3-11節」を輪読し、お互いの必要を分かち合い、教会のために祈り合いました。又、神様が私達に信仰と賜物を与えて下さるよう、互いに求め、私達を大いに用いて下さいと、お祈りしました。その分かち合いの時が終わり、会衆一同が席に戻り、マーク先生からは、「神様の霊に、これからの時を委ねて、お互いが、キリストの体として成長することを目指しましょう。」と締めくくりのメッセージがありました。更に、マーク先生の会衆への呼びかけで、「会衆の中、またその家族の中に、癒しを必要とする方々、或いは試練の中におられる方々が、手を挙げ」、マーク先生と山口光先生から、それらの方々のためにお祈りが捧げられました。また、マーク先生は、「まだイエスさまを主と告白出来ない方がおられたら、今から読む「ローマ書10章9-10節」に耳を傾けて下さい。」と呼びかけました。その後、次のようなマーク先生のお祈りに合わせて、会衆一同がお祈りを捧げました===
主なる神様、私達にあなたの霊を豊かに注いでく下さい。聖霊を溢れんばかりにお注ぎ下さい。そして、私達があなたの賜物を受けられるよう、備えて下さい。私達があなたによって変えられことに臆することがありませんように。どうか私達の内にある恐れや不安を取り除いて、私達を変えて下さい。私達がお互いに仕え合い、あなたの福音のために生きることが出来ますように、造り変えて下さい。イエスさまの御名によってお祈り致します。アーメン!
===この後、聖餐式が持たれました。===
光岡恭平通信員