2005年9月4日(日)の聖日礼拝では、先ず、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクールの子供ら3人も、共に礼拝堂に集り、ジェレミイ・ボウリン兄(Mr. Jeremy BOWLIN)は、子供たちがサンデー・スクールで先月学んだ概要を、子供達を前にして、次のように確認しました: 「”よきサマリヤ人”の学びが終わったので、次に、”主の祈り”を英語と日本語で学び始めていますね。では、その”主の祈り”の最初の祈りは、英語と日本語でどうなっていますか?」と問いかけ、その答えを一人の子供から引き出しました。続いて、9月誕生者3名を祝福するお祈りが、英語でジェレミイ兄によって捧げられました。その後、ジェレミイ兄は子供達を連れて、サンデイ・スクールに向かいました。
続いて、同日の聖日礼拝で、マックレラ・マーク牧師は、「ヨシュア記1章5-9節」を中心聖句として、「スポルジョンの説教から: ただ強く、雄雄しくあって」と題し、英語で次のようなメッセージをして下さいました:
私達の神は、そのしもべ達に対して優しい愛をもっておられます。ですから、神は彼らの心の中の状態に関心をもたれるのです。神は、彼等が「強く、雄雄しくある」ということを望んでおられます。主は、私達の憂いに沈む顔を見るのを好まれないのです。
クリスチャンは、雄雄しくなければなりません。それは、彼が英雄的な態度で試練に耐えて、主の栄光を現すためであります。もし彼が恐れに満たされ、小心であるならば、彼の神を辱めることになるのです。そのうえ、それは悪い例となります。そのような疑惑とか落胆という病は、急速に主の群れに蔓延する伝染病です。
そして、あなたの勇気が続かなければ、サタンはあなたの手に負えないものとなります。あなたの霊を、あなたの救い主である神にあって、楽しませなさい。そうすれば、主の喜びが、あなたの力となり、地獄の悪魔もあなたに立ち向かうことは出来ません。しかし、小心な者は、旗を投げ捨ててしまうのです。
さらに快活な人にとっては、労苦が軽く感じられ、成功は快活な人に齎されます。心の底から神を信じ、神にあって喜びながら苦労する人には、成功が保証されています。「希望をもって蒔く者は、喜びをもって刈り取る」ということです。だから愛する友よ。「強く、雄雄しくあれ。」 では、今から10分ないし15分ほど、2-3人ずつのスモール・グループに分かれて、分かち合いの時を持ちましょう。
===スモール・グループ毎に分かれて、お互いに自己紹介をしながら、自分の名前の持つ意味を分かち合いました。次に「ヨシュア記1章9節」と「申命記31章6-7節」を拝読しました。続いて、次の点についての分かち合いの時を持ちました: 「@あなたは、あなたを理解し愛してくれるもの達から離れて、一人になると何かに不安や恐れを抱くことはありませんか? Aあなたが恐れや不安のただ中にある時、あなたはどのように、「共におられる神様を」を意識しますか? Bどんな状況下でも、神様があなたについて下さると思えますか?」その分ち合いの最後に、米国南部(ニューオリンズをはじめ、ルイジアナ州、アラバマ州、ミシシッピー州など)を襲ったハリケーン「カトリーナ」によって受けた被害は、物理的なものを超えて、精神的、感情的なものであることを覚え、その被害者のために天よりの解決と安息を祈り合いました。そのような分かち合いの時が終わり、マーク牧師と山口光師からも、そのハリケーンによる災害からの物質的、精神的な救援活動が効果的、効率的になされ、一日でも早い回復と救いのために、お祈りが捧げられました。===
最後に、山口喜恵夫人の兄弟姉妹(日本から訪問された弟、鈴木喜与人さんと奥様の歩美さん; ロスアンゼルスから来られた妹の鈴木喜夏さん)は、喜恵夫人のピアノ伴奏で、「ただひとつの願い」と「主は御座におられる」の2曲を合唱して下さいました。なお、山口光師家族は、8月22日から9月6日までの休暇を取っておられますが、本日の礼拝には出席され、ご奉仕もされました。また、山口師は、8月22日には米国から日本に立ち寄り、仙台の家族を1日訪問後、8月末まで約1週間は、「ブリッジ・フォー・ピース」主催のイスラエル聖地旅行(イスラエルには5泊6日間;団長はアーサー・ホランド師、案内役は榊原茂師、参加者24名)に参加されました。その帰りに、山口師は、日本から鈴木喜与人さんご夫妻を連れて、9月1日に米国に戻られました。その聖地旅行では、テルアビブ国際空港(ヨッパ)、ガラテヤ湖、ヘルモン山、死海、エルサレムなどにも行って、聖書のみことばを実地体験でき、素晴らしい旅行であったと、紹介されました。その体験談は、いずれ長期に亘って紹介されるそうです。その礼拝の帰りには、山口師から、「死海の塩」のおみやげを戴き、また、鈴木喜与人ご夫妻からは、坂戸キリスト教会の子供達が作った「キー・ホールダー」(「イザヤ書43章4節」のみことばが裏に記されたマッケレード付き)や日本のスナックなどのおみやげも戴き、感謝しました。
9月11日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記7章1-7節」を中心聖句として、「主が言われた通り」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
本日のメッセージの前に、次の3つのことを分かち合いたいと思います:
(A) ハリケーン「カトリーナ」による米国南部被災地への義捐金を募ります。お心のある方は、ご協力下さい。教会でまとめて送金しますので、チェックの方は、「NCJCC]当てに切り、「義捐金」とご指定下さい。私達は、昨年12月26日の東南アジア津波被害に対しても義捐金を送りましたが、このハリケーンによる米国南部被災地にも義捐金を、World Vision 団体を通して送ります。
(B) 日本で、JCFN(Japan Christian Fellowship Network)の日本支部代表をされている後藤満喜さんと奥さんの光代さんたちは、外国でクリスチャンになって日本に戻った帰国留学生が、日本で教会に繋がり、信仰生活が継続されて行くように、連絡をとりながら励ましを続けております。その活動が高められるよう、今月10日に帰国者カンファレンスも再開されたようです。後藤さんからのお手紙によれば、長男のメルは2歳になり、歯が生えて、乳離れをし、硬い食べ物も食べ、少しずつ成長しているということです。「ヘブル人への手紙5章13節」に示されるように、「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼児なのです。」といわれるような、クリスチャンになったばかりの帰国留学生や、信仰がまだ乳児のような状態で、まだ成長していないクリスチャン学生もいます。それで、そのような帰国者学生の信仰の歩みをフォロー・アップする必要があるのです。現在、後藤さんの月平均支出は約24万円で、月平均収入は、日米からの献金の合計で約16万円です。支出を減らすことも計画していますが、また皆さんからのお祈りと共に、経済的なご支援もお願いしたいということです。どうか、示された方は、後藤満喜さんご夫妻とそのお子さん(来月にもう一人の子か生まれる予定)たち御家族に、献金を送ってください。
(C) 次は、去る8月末の約1週間のイスラエル聖地旅行のことについて分かち合いましょう。先週の日曜日の礼拝後にお伝えした続きになります:
@ 団長のアーサー・ホランド師は自由なお方で、今回は、奥様、愛子さんもご一緒で、私達も打ち解けて話しが出来ました。案内役の榊原茂師も飾らないお方で、イスラエルには33年住んでおり、その案内役は25年もされ、その案内では、聖書に基づいた説明に溢れていました。
A その参加者は24名で、年齢は20歳から77歳まで、健康者に加えて、聾唖者もおり、地域的には、米国も含め日本の北海道から沖縄までの方々で、クリスチャンに加えて未信者もいるという、全ての人種の寄せ集めの様でした。
B 聖地、イスラエルには、世界中からの観光客や巡礼者が入り混じっていますが、その聖地に流れる空気は、人々を不思議に統合して行きます。それでいて、個々がしっかりと自分を主張できる空気もあります。また、イスラエルは、アジアとアフリカと欧州の中心にあり、その3つの気候があるようです。
C ガリラヤ湖で私達が乗った舟は、2,000年前型木製ボートで、そのポールには、イスラエルのダビテの旗の国旗と日本の日の丸国旗も付けられ、「蛍の光」などの歌も聞こえ、「日本人よ、誇りを持て」と言われているようで、「人と国の復活の希望」に、感動させられました。
D そのガリラヤ湖に流れるヨルダン川の源流は、ヘルモン山で、その山は、イスラエルの北のシリアとの国境にあり、昔のダン部族の住んでいた地域です。「ヨルダン」とは、「ダンから流れる」という意味です。その地域も含むイスラエルは、1年の中8ヶ月間は雨が降らず、夏は熱帯性気候ですが、地中からの湧水を取り出して、それがヨルダン川の源流となっているということです。またヘルモン山は緑豊かな山です。
E この聖地旅行では、そのヘルモン山麓からずーと南下して、エルサレムを訪問しました。そのエルサレムは魅力的な町で、その旅行のハイライトでした。ところで、世界の地名は、「エルサレム」という地名以外は、すべて単数で表されます。エルサレムという地名だけが複数で表され、それは、地上のエルサレムと天上のエルサレムの2つを示すからだといことです。「イザヤ書62章1節」に、「シオン(エルサレム)のために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」と記されています。そのように、やがて主イエス・キリストが地上に再臨され、この地上のエルサレムを中心として、千年王国を建設されることを、実感しました。
F イスラエルのホテルや教会堂のあちこちに、共通したサインがあり、私の目を捕らえました。それは、「シャローム、サラーム、ピーズ」というヘブル語、アラブ語、英語の3ヶ国語によるサインです。ホテルでは、「ようこそいらっしゃいませ」の意味ですが、教会堂では「あなたに平安があるように」という祈りとなります。このサインは、人間の様々な思いや願いや祈りを同時に表現できる言葉です。イスラエルを見守られる聖なる主の、人間を探し求める声が反響して来るようでした。
本日の聖書箇所は、「出エジプト記7章ー10章」の中心となる聖句です。先ず、「出エジプト記7章5-6節」に目を留めましょう。その6節には、「そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。」と記されています。それは、「モーセとアロンが、主が命じられた通りに、そのままエジプト王パロに語り、そのまま行なった」ということです。
その6節で、弟であるモーセの名前が、兄であるアロンよりも先に記されているのは何故でしょうか?それはモーセがエジプト人達に言うのが苦しいとき、アロンが代弁してくれるからだということではありません。それは、モーセが兄の力を頼るのではなく、自らの意思と信仰によってやって行くことが示されているのです。
また、その5節では、主がモーセに対して、「わたし(主)が手をエジプトの上に伸ばし、− − 」と伝え、「主が、エジプトに手を伸ばされるので、モーセは、主の言われるまま、そのまま語れば大丈夫、そのままやれば大丈夫なのだ」ということを、神である主はモーセに確信させたのです。「出エジプト記8章5-6節; 8章16節; 9章22節; 10章21節」には、神である主は、モーセの手(腕)を用い、アロンが持つの杖を用いて、主がモーセを通してパロに語られたとおりに、エジプトに10の災い齎したのです。
以上のように、神は、モーセの手(腕)とアロンの杖を必要としたのです。それはどうしてでしょうか?その答えは、「出エジプト記7章1節」に示されています。即ち、「神は、モーセをパロに対して神とし、モーセの兄アロンはモーセの預言者となる」ということです。即ち、モーセは、自分の霊をもってするのではなく、神の霊がすべてをモーセを通してなして下さるということを示して下さったのです。もともと、モーセは、小心で、臆病な者でしたが、神が、いつもモーセと共におられて、モーセを必要としており、モーセを通して神の声を出して下さるということなのです。
このように、神は、皆さんをも必要としているのです。私達が祈っていれば、神が何もかもやって下さるというのではありません。私達が信じている神が言われることを、私達が実際の行動に移す時、神のくすしい御業が成されて行くということを、しっかりと心に留めておきましょう。
9月18日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記10章21-29節」から、「闇と太陽」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
「出エジプト記7-12章」には、エジプトの地に注がれた神の裁きによる10の災いが記されています。本日の聖書箇所には、その9番目の災いとして、「エジプト全土に3日3晩も真っ暗闇、暗黒の暗闇」が齎されたが、「イスラエル人のエジプト定住地だけには光があった」ということが記されています。この暗黒とは、全く見えない状態です。そこに光が少しでもあれば、物理的な距離も、精神的な距離も判別でき、空間を共有できます。しかし、暗黒の暗闇では、すべての愛、すべての人から隔離されてしまい、孤独感に陥ってしまうでしょう。
私は、去る8月末の1週間はイスラエル聖地旅行に行きました。イスラエルは、1年の中8ヶ月間は乾燥期間中で、8月は最も熱い季節となります。そして、イスラエルの歴史や文化は、メランコリクで憂鬱なものですが、イスラエルでの太陽は大きく、眩しく、熱く、地上を照らしていました。そして、ガリラヤ地方には緑がありますが、南下して死海の方に来るに従い、砂漠状態となり、シナイ山やエジプトには緑はありませんでした。その砂漠にいる羊は、2,000年前から枯れた黄色い草を食べていたでしょう。そのような砂漠地帯では、太陽の明るさも熱さも容赦なく注いでいました。写真は、どんより曇り空の日には、よく摂れます。しかし、よく晴れた日に写真を撮ると、眩しく白く光る太陽に照らされた物体は色あせて白くなり、その物体の影は真っ黒となり、よい写真は摂れません。
イスラエルの太陽は、こちらが望まなくても、顔を向けてきて、「わたしの存在はここだ。わたしに気付け。」と言わんばかりでした。私は、そのようなイスラエルの太陽に出会って、神様への思いに駆られました。そして、「神様は日の光の七倍」(イザヤ書30:26)というみことばがあるように、神様の光はイスラエルに降り注ぐ太陽以上に、容赦なく私達一人一人に照り続け、神ご自身の偉大な存在をお見せになると思わされました。永遠の光からは誰も隠れることができません。この世のものは色あせ、主イエス・キリストだけが大きく光輝く時が、やがて来るでしょう。その時には、白くされる部分と陰になった黒い部分とが明白に区別されるでしょう。その時、私達自身の陰も現されてしまうでしょう。人間の暗くて冷たい部分は、焼き除かれ、主イエス・キリストの圧倒的存在を前に、誰もが屈服するに違いありません。私は、イスラエルの太陽の注ぎを受けて、私はやがて再び地上に再臨されるイエス・キリストの大きく、眩しく、熱い存在を感じ、再臨のイエス・キリストをお迎えする備えが出来たように思いました。
「出エジプト記」は、一つの地場が、闇であった所から、自由という所に移されて行くことを示しています。それは、イスラエルの民が、地上を離れて、天国という、明るくて神の圧倒的存在が示される所に連れて行かれることを示しており、後に起こることの予型を示しているように思えてきます。「出エジプト記」には、エジプトの地に注がれた神の裁きによる10の災いが記されています。その全ての災いが起こることは、神がモーセとアロンを通してパロに予告されています。
その最初の5つの災いは、第@に、水が血に変わり、きれいな飲料水が無くなった; 第Aに、蛙が川にも陸にも群がった; 第Bに、ぶよ(蚊)の大発生で水も汚染された; 第Cに、あぶ(蠅の一種)が全土[イスラエル人達の住むゴシェンを除く]の腐敗物に広がった; 第Dに、疫病で家畜が死んだ[イスラエル人達の家畜を除く]という災いでした。パロは、その5つの災いが起こることを予告されていても、パロは心を頑なにして、パロが主体性をもって、イスラエルの民に反抗することを、神はそのままにしておられました。
続く5つの災いの場合には、神ご自身がパロの心を頑なにし続けました。その第Eの災いは、エジプト人には、うみの出る腫物ができた; 第Fは、激しい雷が鳴り響き、大きな雹[ゴシェンを除く]が降った; 第Gは、いなごの大群がエジプトの草原に広がった; 第Hが、3日3晩の真っ暗闇[ゴシェンを除く]が続いたという災いでした。
私は、イスラエル旅行で、ガリラヤ湖にも行き、イエスさまが山上の説教をされた場所にも行きました。その場所にいると、朝は地中海からの西風が吹き、昼には一番強い風となるということを体験し、聖霊の力を感じました。神の臨在でエジプトが覆うわれる時、パロはそれに反抗し、強情になり、神に対して挑戦しました。パロ達エジプト人は、太陽の神(ラーの神)、川の神、大地の神、天の神などの八百万の神を崇拝していました。しかし、唯一の神は、それらの偶像信仰を覆すために、そのエジプト人らに、10の災いを齎したのです。
イスラエル人達は、エジプトでは寄留者であり、奴隷でした。そのため、イスラエル人は、目に見えぬ神に寄り頼み、神第一とし、約束の地、シオンの地の者とされるため、エジプト人と戦って行ったのでしょう。ところで、私達は、身も心も魂も、主のものとされ、主の手に入るように、努力しているでしょうか?上記の災いでも、第C、第D、第Fや第Hなどの災いは、エジプトのゴシェンに住むイスラエルの民には及ばなかったことが記されています。そのゴシェンには、偶像礼拝の罪を悔い改めたエジプト人もいて、その災いから逃れることが出来た者もいたかもしれません。
「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。万軍の主の栄光は全地に満つ。」と、「イザヤ書6章3節」に記されています。私達は、主の光と力と聖に触れ続けて行き、絶えずきよめられて行き、主のものとされて行きましょう。
本日の聖書箇所には、イエス・キリストが、真の大祭司として来られて、真の贖いがなされたことが示されています。モーセの律法では、血を飲むことが禁じられていました(レビ記7章26節)。ところが、この律法に対抗するかのように、イエスさまは弟子達に、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むうように」と勧め、「これが永遠のいのちを得る方法だ」と言われたのです(ヨハネによる福音書6章54節など)。旧約聖書では、血液は、命と生命力を象徴しています。イエスさまは、「わたしの血を飲まなければ、あなた方の内には本当の命はない」と告げています。イエスさまが十字架の上で流された血潮は、私達に、ご自身の命を注ぐためでした。
さて、聖書で最初に血、または血液について触れている箇所は、創世記のアベルの血に関する所です。アベルは兄のカインによて殺され、アベルの血が大地に注がれ、その血は大地から天にいる神様に向けて叫ぶという記述があります(創世記4章8節、10節)。神であられる御子イエスさまは十字架の上で、私達の罪のために、神ご自身の体を割いて、神ご自身の血潮を流されました。私達が、イエスさまの血潮を象徴するぶどう酒を飲む時、私達は、イエスさまの血潮が私達の罪の中に流されたことを信仰告白します。この大地は、そもそもアダムとカインの罪で呪われ、血で汚されています。私達もその汚された大地の産物です。イエスさまは、その汚れた大地に、汚れた私達に、ご自身のけがれていない、きよい血潮を流して下さり、罪のけがれから解放して下さったのです。
さきに述べたように、神様は、血液を飲むことを禁じました。しかし、人間の罪の贖いのために、神様は、血による犠牲を要求なさいました。それで祭司は、人々の罪を贖ってもらうために、祭壇に血のささげものを注いで、祭壇をきよめました。つまり、祭司は、動物の血を、先ず祭壇の周りにふりかけ、次に祭壇の上に注ぎ、そして残りの血を、祭壇の土台の周りに流します。また、このような血による犠牲は、罪を犯した人間のために用意され、人間の汚れた心を浄化しました。神はモーセを通し、人々が神様との契約を忘れることがないように、動物の血を、直接彼らに注ぐことも定めたのです(出エジプト記24章6-8節)。
ここで、イエスさまが何故、神の律法で禁じられている「血液を飲むということ」、つまりイエスさまご自身の血潮を飲むということを、人間に要求されたのかを考えてみましょう。聖書の預言書の中で、神様はイスラエルの民の律法の守り方を喜ばれなかったことが記されています。それは、イスラエルの民が律法を守って、心から礼拝するのではなく、形式的礼拝となり、また偶像礼拝化し、それを悔い改めず、律法が示す神様の愛から離れ、律法からも離れてしまったからです(イザヤ書1章10-17節など)。
さて、旧約聖書時代では、ほふった動物の血液は、祭壇に流して祭壇をきよめるということが目的でした。つまり、その流された血を見て、人間は自分の罪が受けるべき報酬を心に刻み、神様の赦しの業に感謝しました。神様が要求した、このような血によるささげものには、このような「神と人との関わり」を、個人的に大切にするという、神様の配慮がありました。誰かが罪を犯せば、血のささげものが神様から要求されました。そして罪人は、そのささげものを、自分の密室で捧げるのではなく、イスラエル共同体の前で捧げるのが、神様の求めたやりかたでした。
イエスさまは、新しい契約を私達と結んでおられます。新しい契約の中では、血が流される祭壇は、私達とされています。私達の体を、神に受け入れられる、聖い祭壇として捧げる時、そこにイエスさまの血が流されるのです。血は命を意味します。つまりイエスさまの命が、祭壇である私達に注がれます。祭壇とされた者の上に神様の命が注がれ、イエスさまの復活の力を受けて生きるようになるのです。
イエスさまを主と告白することは、つまり、「私には救いが必要な罪人です」と、公に示すことを意味します。今日の聖餐式において、私達は、イエスさまの体と血潮を象徴するパンとブドウ酒を戴きます。これは信仰告白の場です。つまり、聖餐に預かる各々が、自分の隠れた罪を告げて、神様の赦しと新しく生きる力を、イエスさまの体と血潮を通して、戴く場です。
「イザヤ書」に記されていたように、主なる神様は、人間の自己満足的な礼拝のやりかたに気を悪くしておられます。人々は、あまりにも自分達の礼拝行為を過信しすぎ、それに満足し、自己義認に陥ってしまいました。また、ある者達は、聖餐のパンとぶどう酒を受けるために、自分達は完全でなければならないと考えます。イエスさまの前に出る時に、完全であれる者などいるでしょうか。もしあなたが、神様の赦しや恩恵をうけずとも存在できる人間として聖餐にあずかるのでしたら、むしろその心が、「コリント人への第一の手紙11章27節」に記されるように、「ふさわしくないままで聖餐にあずかる」ということになります。キリストの血を象徴するぶどう酒を、そのような心で飲んではいけません。
聖餐式は、共同体で持つ告白の場です。そしてお互いを愛し合う場です。今から、10分ないし15分ほど、3-5人ずつのスモール・グループに分かれて、分かち合いの時を持ちましょう。
===スモール・グループ毎に分かれて、お互いに自己紹介をして、自分の住んでいる町も紹介し、「コリント人への第一の手紙10章16-17節」、「マタイによる福音書5章21-24節」、「ヤコブの手紙5章16節」などを輪読しました。続いて、@自分の罪を言い表し、A祈り合えることを挙げながら、分かち合い、祈り合いました。その分かち合いの時が終わり、マーク牧師から、次のような締めくくりのメッセージがありました:===
キリストの肉を食べ、血を飲む聖餐の場で、私達は、罪人であることを認め、罪の報酬は死であることを受け留めなければなりません。その時に、神の御子イエス・キリストを通してのみ与えられる、神の恵みを受ける魂の備えができ、私達は本当の命を生きられるようになります。モーセの律法に重ねて言えば、体を食べ、血を飲むという行為を通して、人間は死にます。イエスさまの体と血を受ける者は、律法が示すように、つまりしぬのです。しかし、あなたの罪のために死んだキリストと共に死ぬということです。
十字架の上で、イエスさまご自身が血のささげものとして死んで下さいました。私達の罪の赦しは、ここに表されました。このことを信じる者は、イエスさまと共によみがえり、新しい命と力を受けて、新しく生きることができます。私達の救い主イエスさまは、こうして救いの道を備えて下さったのです。賛美します。感謝します。お祈りしましょう。「主なるイエスさま、私達が自我を捨て去り、日々あなたの愛の中にあって、あなたに信頼し、あなたを知って、成長して行くことが出来ますように助けて下さい。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。」
「イエスさまの時代の聖餐の食事は、一つのテーブルを囲み、お互いに顔がよく見えるように輪になってすわり、お互いに体を寄せ合うような形で、持たれました。今日はそれをまねて、聖餐に預かる者は、輪になって、一緒に受けましょう。イエスさまの弟子達はお互いのことを良く知っていました。そして聖餐の食事をしたのです。最後の晩餐は、イエスさまが十字架につく前の晩の出来事でした。その3日後、死んだイエスさまが復活された時、その弟子達の関係は、切っても切れない深い関係となりました。それはつまり、3日間のうちに、彼らは、一度イエスさまを裏切り、イエスさまを、囚われの身になるままに良しとして傍観しましたが、晩餐の翌日、カルバリの丘の前で、自分達の罪の愚かさにうちひしがれるという、共通の経験を通ったからです。
神様の赦しを受けるために、私達が告白すること、それも弟子達がそうであったように、お互いの前ですることは、大変意義ある、素晴らしいことです。今、この会衆の中に、イエスさまをまだ個人的に受け入れていない者がいましたら、今、信じて、聖餐の食事をして下さい。信じて、イエス・キリストの体と血を象徴するパンとぶどうジュースを食し、キリストさまご自身を食することによって、あなたの罪が赦されることを、あなたの心で受け入れて下さい。そして、洗礼を受けていない者は、マーク先生か私にお知らせ下さい。そして主イエス・キリストの救いを信じる者に囲まれながら、喜んで洗礼を受けて戴きたいと願います。
お祈りしましょう。「主なるイエスさま、あなたの十字架による犠牲を心から感謝いたします。あなたの体と血潮を、今私達は食します。これを通して、私達を聖めて下さい。そしてあなたの聖い霊の注ぎを与えて下さり、私達があなたの愛と栄光を周囲に放って生きる者となるように備えて下さい。今私達は願います。あなた自身を私達の中に下さい。御名によってお祈りいたします。アーメン。」
光岡恭平通信員