2005年7月3日(日)の聖日礼拝では、先ず、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクールの子供ら3人も、共に礼拝堂に集り、ジェレミイ・ボウリン兄(Mr. Jeremy BOWLIN)は、子供たちに、先週学んだ「イエスさまのたとえ話し」についてどんなことを学んだかについて問いかけながら、それは、「親切」、「恵み」などの答えを引き出しました。そして、今日は、「ヤコブの手紙2章26節」のみことば(行いのない信仰は死んでいる。)から学びましょうと伝えました。続いて「8月誕生者を祝福するお祈りが、英語でジェレミイ兄によって捧げられ、日本語でも山口光師によって捧げられました。その後、ジェレミイ兄は子供達を連れて、サンデイ・スクールに行き、また、英語牧師のマクレラ・マーク先生も、英語を話す人を連れて、「英語による聖書の学び」の部屋に行きました。
続いて、同日の聖日礼拝で、山口光師は、「出エジプト記4章1-17節」を中心聖句とし、「抵抗したモーセ」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
先ず始めに、クリスチャンになった人に質問しますが、自分がクリスチャンになった時のことを覚えていますか?私は、1988年8月7日、丁度今から17年前、私が17才の時、テネシー州メンフィス市にあるハイランド・キリスト教会で、信仰告白をし、数千人の礼拝の中で、証をし、祈られ、洗礼を受けました。そして、その時、その教会の長老が、私の英語の聖書の表紙の裏に書いて下さった英語のメッセージがあります。それを日本語に訳すと、次のようになります: 「ヒカル、人生で一番大きく最高の決断をしたね。おめでとう。この聖書はあなたの今後の人生をガイドし、あなたのキリストへの従順をリマインドさせるだろう。われわれは今から永遠に至るまで、あなたが喜んでいられるよう願い、祈ります。1998年8月7日、ザ・エルダーズ」。このように、私は、洗礼を受けた時、神からも、信者からも、励ましがあったことを覚えます。
モーセの人生の原点は、「出エジプト記3章ー4章」に記されています。モーセは、80歳の頃、神からのみことばによって、モーセに与えられた使命が示されました。しかしモーセは、何度も、何度も、その神のみことばに抵抗したのです。でもモーセは、遂にその神のみことばによる使命を受け取り、それが、モーセの人生の原点となり、その後、モーセの生涯の最後の40年で、その使命が完結されたのです。そのモーセの神への抵抗は、大きく4つありました。その第一は、「出エジプト記3章11節」(私はいったい何者なのでしょう。); 第二は、「出エジプト記4章1節」(彼ら[エジプト人、ユダヤ人]は私を信ぜず、ー − ”主はモーセに現れなかった”というでしょう。); 第三は、「出エジプト記4章10節」(私はことばの人ではなく、口が重く、舌が思いのです。); 最後に第四の抵抗として、「出エジプト記4章10節」(どうかほかの人を遣わしてください。)というように、モーセは主である神に抵抗し、反発したのです。
人は、人生の原点に入る時、即ち、自分が本来あるべき姿を取り戻すために、人生の軌道修正をする時に、恐らく自分に降り掛かってくる苦痛から逃れたいというような、自己防衛的な本能も働くのでしょう。モーセは、エジプトで生まれ、エジプト王室で育てられ、40年を過ごし、経験も富も力も沢山備えられました。しかしその時、モーセは、エジプト人をあやめ、同胞の民からも同情されず、ミデアンの地に逃れました。その地で、モーセは、その地の族長から気に入れられ、祭司の娘を娶り、力と祭壇も分与され、80歳になりました。その時、神から「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」という使命が示されたのです。しかし上記のように、モーセは、神の示すその使命を受け取ることが出来ず、みことばに聞き従うことが出来ず、何度も抵抗したのです。モーセが、そのような神からの使命を示された時、恐らくモーセの視野は広げられたでしょう。若し、その時、モーセが若者であったら、そのような神から示された使命に対して、あまり抵抗することなく受け入れたでしょう。でも、その時、モーセは、熟年、老年の域に入っており、経験、知識、富が多いので、失敗を恐れ、苦しみたくないと思い、それだけ多くの悩みに落ち込んだのでしょう。
モーセは、神から示された使命に、何度も抵抗しましたが、その度ごとに、神からの励ましの応答があり、そんな経験や富や力に頼らなくても、神が与えて救って下さるという福音が示されたのです。次に、そのモーセの抵抗と、神の応答を纏めてみましょう:
(A) 「出エジプト記3章11節」(私はいったい何者なのでしょう。)ー> 神は、「わたしがモーセと共にいる」と答えられ、モーセと共に神がエジプトに行くことを約束されました。
(B) 「出エジプト記4章1節」(彼ら[エジプト人、ユダヤ人]は私を信ぜず、ー − 主はモーセに現れなかったというでしょう。):−> 神は、神がモーセと共にいるという”しるし”を実際に現して下さいました。その”しるし”は、「出エジプト記4章2-9節」の記されるように、モーセの杖を蛇に変え、その蛇を杖に戻し、モーセの手をらい病にし、またそれを元の手に戻し、モーセにナイル川の水をかわいた土に注がせて、その水を血としたという3つの”しるし”を、実際に現されたのです。
(C) 「出エジプト記4章10節」(私はことばの人ではなく、口が重く、舌が思いのです。):ー> 神は、「モーセが言うことは、神が教えてくださる」と応答され、神ご自身の圧倒的な存在を見せられたのです。
(D) 「出エジプト記4章10節」(どうかほかの人を遣わしてください。): −> このように、神の召しを拒否したモーセの抵抗に、神は憤怒されましたが、モーセの兄、アロンも助けることを示されました。「箴言10章19節」には、「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制するものは思慮がある。)と示されています。私達が信仰によって神にお委ねして行動すると、神は私達の口をきよめ、その口と共にいて下さり、生き生きと、力をもって助けてくださるのです。
お祈りしましょう。「老人となったモーセは、自分が神から示された使命に従うなら、恐らく苦しみ、傷つけられであろうという思いに駆られて、その神からの召しに抵抗を繰り返しました。どうか、私達も、自分たちの知識、経験、力などは、すべて神にお委ねし、神の示される召しを、無条件で受け入れ、神への全服の信頼へと導いて下さい。とかく私達は、神からの召しに抵抗し、十字架上にイエスさまを釘づけにするようなものですが、どうかその臆病と傲慢をお赦し下さい。そして、私達が、神からの使命を知ることが出来、その使命に応答する行動を通して、日々、きよめられ、その使命に応えて行けますよう、力づけ、助け、導いて下さるようにと、お祈り致します。そのような神からの使命に感謝し、この祈りを、主イエス・キリストの名によって、お捧げ致します。アーメン!
8月14日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記5章」から、「仲介者としてのモーセ」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
本日の聖書箇所の前後関係が不明である方がおられましたら、「使徒行伝7章」は、ステパノが旧約聖書に記される歴史を要約して話した記事ですので、それを読んでみて下さい。「出エジプト記1-5章」については、「使徒行伝7章17-36節」に要約されています。そこまでは、まだ、モーセの80歳の頃までのことが記されていますので、モーセが後年になってから、神の栄光を浴びるというような姿は見えません。モーセが80歳であった頃は、羊を飼う者であり、普通の者のようであり、何故、神がそのような普通の者のようなモーセを選んで、イスラエルの民をエジプトの奴隷生活から解放する使命を与えたのかは不明で、神のみが知ることでした。私たちも、イエス・キリストにある信仰をもって、新生し、教会に繋がり、神の子とされた者ですが、天国でどんな報いを受けるかは不明で、神にみが知ることです。
ダビテやエレミヤは、神を中心とする生活で、常に神に導かれる者たちでした。しかし、80歳のモーセは、富、力、経験、知識が豊富であっただけに、強情で頑固な心の持ち主で、神からの召しにも何度も何度も抵抗しました。それでも神は、そのモーセの心を次第に柔らかくして下さり、聖なる神が降りてきて下さり、神の方からモーセに近づいて下さったのです。モーセはそれによって遂に、その神からの使命を受け入れることを決心し、使命を果たすことを開始したのです。「ヨブ記」には、ヨブが、「主は与え、主は取られる。」と悟ったことが記され、ヨブはすべてを神にお委ねしたのです。モーセは、何度も何度も神の召しに抵抗しましたが、遂に、神に明け渡し、神にお委ねして、神の使命を果たし始めたのです。このように、神は、抵抗するモーセに、100%向き合って下さったのです。神は圧倒的な存在をお見せになり、最終的には、神の力が働くのです。
ところで、先週の礼拝メッセージでは、「出エジプト記4章1-17節」を中心聖句としており、「出エジプト記4章24節」の記される「主はモーセに会われ、彼を殺そうとされた。」という事件についての話しがなく、未完成で終わりました。今日は、その聖句についても考えてみましょう。神は、その時、モーセを死ぬほどの重い熱病に罹らせて殺そうとしたのではないでしょうか。私も20歳の時、牧師への召命を受けましたが、24歳でようやく決心し、行動に移したのです。その4年間の間に、私は交通事故で危ない目に遭い、「主よ!」と叫んだことでした。モーセも、その重い熱病に罹った時、「主よ!」と叫んだのではないでしょうか?そしてモーセは、自分が何故そんな重い熱病に罹ったのかという事に気付かされたのでしょう。その答えは、次の「25-26節」に示されています。当時、モーセには、ユダヤ人ではない妻、チッポラと二人の息子(長男ゲルショムと次男エリエゼル)がいました。モーセは、その長男には割礼を施して、父親としての責任を果たしましたが、次男には割礼を施さなかったのです。モーセは、そのように神との契約を軽く見ていた自分を、神は罰しようとして、この重い熱病に罹らせたのだと気付かされたのでしょう。早速、チッポラに頼んで次男に割礼を施し、主の掟に従ったのです。神は、そのようにして、モーセに、神が人生の主導権を持ち、命の支配権を持つことを示されたのです。このように、神の選びは、中途半端ではなく、100%の誠意をもって、選び続け、神は、その選ばれた者が、きよい人生を送るように方向付けをされて行くのです。そして、「出エジプト記4章30-31節」に記されるように、主がモーセに告げられたことを、アロンがイスラエルの民に伝えた時、その民は皆、主の前に跪いて、主を礼拝したのです。
さて、今、モーセの敵はエジプト王、パロです。「出エジプト記5章1節」に記されるように、モーセとアロンが、パロのところに行き、「イスラエルの神、主は、イスラエルの民をエジプトから荒野に行かせ、そこで主のために祭をするようにと言われています。」と告げます。しかし、パロは、「主を知らない」とか、「その神は奴隷の神だ」とけなし、イスラエル人は、「怠け者」とか「愚か者」などと馬鹿したのです。でも、イスラエル人は、組織力があり、粘り強く、エジプト人と逆らい、「怠けているのはエジプト人で、奴隷の上で怠けており、いけない者たちです」というように、パロに叫んだのです。パロは、そのようなイスラエルの民を、神から引き離そうとしたのです。そこで、イスラエルの民は、エジプトでの400年に亘る奴隷生活による傷ついた思いを、もうパロにはぶつけることが出来ず、モーセにそれをぶつけ、モーセを痛みのはけ口としたのです。
その時、「出エジプト記5章22節」に記されているように、「モーセは主のもとに戻り、そして申し上げた。」ということです。即ち、モーセは、イスラエルの民と神との間に立って、仲介者となって、神を仰ぐ姿が、この聖句から示されます。当教会の今年の年間教会標語は、「隣人愛」となっています。私達クリスチャンも、主に立ち返る場所である教会に戻り、神の呼びかけに応じて、主のもとに戻されて行きましょう。そして、まだ未信者の家族の者達や友人達の中に立ち、その未信者達と神との間の仲介者となって、その未信者達が、神に連れ戻されるようにと祈りましょう。そして、いつも愛と喜びと希望の日々を送り、未信者の人々に、神の栄光が証しされて行きますようにと祈りましょう。
8月21日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「出エジプト記6章1-13節」から、「心と口が重いモーセ」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
本日の聖書箇所の1節には、主である神が、モーセに対し、「彼(エジプト王パロ)は、強い手にしいられて、彼ら(イスラエルの民)を国(エジプト)から追い出すであろう」と言われたことが記されています。この「強い手」ということばは、その1節に2回も記されています。この「強い手」とは、「聖霊の力」です。その聖霊の力によって、モーセの重い心と口は、やがて強く押し出されて行ったのです。聖霊の力によらなければ、どんな重い心も口も押し出せないのです。でも、その押し出すための道具が必要なのです。その道具とは、モーセの口であり、行いであり、また、皆さんの口であり行動なのです。ところが、その道具である人の体の目とか耳とか口など、ある部分が弱いかもしれません。でも、その弱さに対する試練を通し、聖霊の力によって、神の強さに変えられ、多くの人々が益を得るのです。
当時、モーセは80歳でしたが、放牧生活の中で、健康であったようです。しかし、そのモーセが、神である主(出エジプト記6章2節、29節)から、「神のために、口も耳も目も使って、神のことばを宣べ伝えなさい」という召命を受けた時、臆する霊に捕らわれてしまったのです。そして、モーセは、神である主に対し、自分は「口べたなのです- -[新改訳]」(唇に割礼のない者- -[新共同訳、口語訳])というように自己弁護してしまったのです(出エジプト記6章12節、30節)。
ところで、「唇に割礼のある者」とはどんな人でしょうか?それは、神との契約を通して、肉体に傷があるということです。また、それは、新約聖書時代においては、イエスさまが十字架でつけられた傷跡を象徴しており、イエス・キリストによて贖われたというしるしです。即ち、「唇に割礼のある者」とは、「神によって救われ、きよめられ、神のものとされ、神のことばをとりつぐ牧師となり、また証し人となるようにと、献身の励ましを受けた者」ということが出来るでしょう。言い換えれば、クリスチャンは、神のことばの「通りよき管」となることです。例え、心が何かの重みで、その神のことばの通る管が詰まってしまうようなことがあっても、神の方から、聖霊の力を働かせて下さり、詰まった管の中に、強い聖霊の息吹を吹き込んで下さり、その管を通りよき管とし下さるのです。
使徒パウロは、「コリント人への第一の手紙2章2節」で、自分は、コリントの兄弟たちに、「十字架につけられたイエス・キリストのほかは、何も知らないことに決心した」ということを記しています。パウロは、タルソ大学出身で、ガマリエルという宗教哲学者の愛弟子であり、以前は、アテネに住む哲学者、宗教学者たちと、知恵を出して論じ合ったが、失敗したことを振り返っています。その時パウロは、聖霊の力を受けて、率直な信仰をもって、福音を宣べ伝えて行くことを決心したようです。
一方、モーセには、パウロのような大胆さはなく、献身の思いも小さかったようです。モーセは、繊細な心の持ち主で、思いつめるという弱さをもっており、神を素直に信じきれない不信仰さもありました。このようなモーセに対し、神は、「わたしは主である。わたしがあなたに話すことばを、すべてパロに告げなさい」と命じられるのです(出エジプト記6章29章)。このような主のモーセに対するご命令は、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」などに70回も記されているのです。そのように、臆病であったモーセを、聖霊の力をもって、一回、一回、奮い立たせ、神のことばを宣べ伝えるように、神の方法で、神のご計画によって、備えて行って下さったのです。
「申命記18章18節」に記されているように、やがて神は、モーセの口に神のことばを授けて、モーセを預言者とし、モーセを神とイスラエルの民の間に立つ仲介者とし、また、モーセを神の代表者として、イエスラエルの民に与えたのです。
本日は、これから聖餐式を持ちます。臆する霊が働いている人がいましたら、イエスさまの十字架の血潮で、罪を洗い流して戴き、神のみことばの通りよき管となりましょう。ー − − 続いて、聖餐式がありました。− ー −
初めにお祈りします。イエスさま、私達が御言葉を聞いて、従う心を与えて下さい。また、私達の思いを整えて下さい。そして、私達が祈り合い、仕え合う事ができますように。この時を感謝して、主イエスさまの御名によって祈ります。
私が覚えている限り、食べ物の中の大好物といえば、フルーツです。ブルーベリー、桃、りんご、バナナ、オレンジ、スイカやメロン等、挙げているうちに、それらのさっぱりとして、とてもおいしい味覚がよみがえってきています。本日の聖書箇所の22節の中で挙げられている、「愛、喜び、平和(平安)、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(自制)」というフルーツ、即ち「御霊の実」は、私達が考える以上に、体の中に入っていく食べ物に似ています。人間のさまざまな歴史や文化を通して見る時、愛、喜び、平和などは、男性達も女性達も、常に求め続けているものです。そして完全な人間性のためには、「御霊の実」の全ての部分が、どうしても欠かせなくなります。
聖書を見ていく時、最初の「実」という言葉は、天地創造のことが記されている「創世記1章11節」に出てきます。神様は、人間の体のために、前もって「種のある実を結ぶ果樹」を創造されました。御霊の結ぶ実を深く考えて見ると、「それらは人間の魂のためにある」ということが見えてくるのではないでしょうか。また、それらの御霊の実も、それぞれの中に種を宿しています。即ち、愛は愛を宿します。喜びは喜びを育てます。平和は平和を造っていきます。忍耐は忍耐を生じます。
信仰は聞く事から始まるので、「御霊の実」が私達の中に、自然には生み出されないということを知っておくべきでしょう。私達が、神様に心から賛美を捧げ、栄光をお返しして行く時に、福音の種は豊かに実を結びます。そうでないと、他の人々は、私達が努力して自らの手で、現在に至っていると思ってしまうでしょう。これらの「御霊の実」は、聖霊によって生かされ、聖霊に歩調を合わせて行く時にのみ実って行くのです。聖霊のリズムに歩調を合わせなければ、私達も一人一人クリスチャンとして、キリストの教会として、しっかりと機能できません。神様は、私達がどうしたら聖霊とリズムを合わせる事が出来るのかを、御言葉をもって教えて下さいます。
神様は、イエス・キリストを通して、私達にきよい霊を与えて下さったのです。そのことは、「ヨハネによる福音書15章1-17節」で、はっきりと私達に示して下さっています。その聖句を要約すれば、次のようになります:「イエスさまは、ご自分をまことのぶどうの木のように例え、イエスさまの御言葉できよめられている者は、そのまことのぶどうの木に繋がって豊かに実を結ぶ枝のように例え、イエスさまの父なる神は農夫のように例え、その木に繋がらないで実を結ばずに枯れてしまった枝は、火に投げられて焼かれるというように例えました。そして、イエスさまを愛し、互いに愛し合うことを命じました。」
神様が私達の内側に結んで下さる実は、永遠に枯れることがありません。また、もし人が、私達を通して、キリストの身元に来ることが出来たならば、この人達は永遠に救われます。私達の内に、御霊の実が育っているならば、それは永遠に枯れる事はありません。神様は人を変えて下さいます。キリストを受け入れている人は、神様が御霊の実を、その人の中に結んで下さり、育てて下さっているということを思う時、本当に自分の中に起こった変化が見えてくるのではないでしょうか。
今から、10分ないし15分ほど、2-3人ずつのスモール・グループに分かれて、分かち合いの時を持ちましょう。
===スモール・グループ毎に分かれて、お互いに自己紹介をし、「ガラテヤ人への手紙5章 16-26節」を、一人2-3節ずつ読みました。続いて、@どのような肉の望みから、神様はあなたを救って下さいましたか? A神様は、御霊の実のどの部分を、あなたに結ばせて下さっていますか? Bどの御霊の実が、あなたの中でもっと育っていけたら、と願いますか?という3点について、分かち合い、祈り合いました。その分かち合いの時が終わり、マーク牧師から、次のような締めくくりのメッセージがありました:===
私達は皆、愛、喜びや平和というものは、身に付けたいと思いますが、柔和や自制などはどうでしょうか?御霊の実は、それぞれの部分が全部揃って、はじめて一つの完全な実になるわけです。柔和と自制のない愛とは、何でしょうか?喜びのない信仰は、律法に苦しめられます。愛に欠ける親切は、死んだ行動になります。ただ、イエスさまのきよい霊が、私達の中に働いて下さる時だけ、これらの部分を全部生み出して、これらが全部揃った一つの実を付けて行く事が出来ます。
「ガラテヤ人への手紙5章24節」に、聖霊と共に歩く仕方が書いてあります。「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」 この聖句からは、キリストの十字架の死を通して、私達が得る事が出来る自由が聞こえてくるようです。
また、「ガラテヤ人への手紙2章20節」には、このように記されています: 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 これは、自分よりもキリストが主体になって生きていることが示されています。
同じく、「ガラテヤ人への手紙6章14節」には、「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」と記され、古い自分が過ぎ去って、新しくされたクリスチャンの姿を示しています。
イエスさまは、「自分の命を求める者はこれを失い、主と、福音のために命を投げ出す者は、命を得る」と、言われました。聖霊にあって満ち足りた人生を送る鍵は、私達が罪を認め、悔い改めて、キリストの赦しを受け、神様にお仕えする道を歩むことです。自分自身に仕えて行く事は、死に繋がります。逆に、神様にお仕えして行く時、私達は罪と死の束縛から解放されます。神様は、私達一人一人が求めるもの、私達一人一人に必要なものが、全部揃っている「御霊の実」を用意して下さっています。信じて受け取るかどうかは、私達次第です。
祈りますので、心を合わせて下さい: 「イエスさま、私達がまだ罪人であった時、身代わりになって死んで下さったことを覚え、あなたさまの御名を崇め、感謝します。父なる神様、私達が赦され、きよめられ、人生のやり直しが出来るように、あなたの御子を送って下さり、本当に感謝します。聖霊さま、私達の中に、イエスさまの霊を宿し、御霊の実を分かち合えます事を、感謝致します。キリストの父なる神様に在る人生の満たしを、心より感謝致します。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン!」
光岡恭平通信員