2005年6月5日(日)の聖日礼拝では、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクールの子供ら4人も、共に礼拝堂に集り、ジェレミイ・ボウリン兄(Mr. Jeremy BOWLIN)は、「幸いな人」について、子供たちに問いかけながら、答えを引き出しました。その「幸いな人」とは、イエスさまの山上の説教の中で、「マタイによる福音書5章3-6節」記される4種類の「幸いな人」で、「へりくだった人」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え乾いている者」であるという答えが、それぞれ引き出されました。次に続く「幸いな人」については、次に学ぶことにして、キッズ・タイムが終わりました。
続いて、同日の聖日礼拝で、山口光師は、「マタイによる福音書6章1-10節」を中心聖句とし、「祭壇の煙 − 主の祈り」と題し、次のようなメッセージをして下さいました:
教会の新年度である今月からは、本日の聖書箇所に示されるように、「祈り」をもって始めることになりました。「黙示録5章8節」には、天での礼拝が記されています。その礼拝では、二十四人の長老と四つの生き物とが、立琴と、香の満ちた鉢を持って ー この「香」は、聖徒の祈りです −、ほふられた子羊、御子イエス・キリストの前にひれ伏して、礼拝したということです。また旧約聖書時代には、祭司が、羊や牛をほふり、皮をはぎ、それを祭壇の上で火で焼かれるいけにえとして捧げて、主に祈ると共に、祭壇の前に立つ罪人も、罪を悔い改め、信仰を告白し、主に感謝し、主を賛美して、お祈りが捧げられたのです。その祈りは、祭壇のある神殿から、天に立ち上がる煙となって、天に届けられたのです。
「マタイによる福音書5-7章」には、イエスさまがガリラヤの丘から話された「山上の説教」が記されています。その中には、私達がどのようにお祈りするかについて、イエスさまが教えて下さった「主の祈り」も含まれています。イエスさまは、ほふられた神の子羊となられ、また、永遠の大祭司として、今も、これからも永遠に、神と人との間を仲介されるお方です。今、イエス・キリストは、天において、父なる神の右に座しておられると共に、聖霊の形をとって、私達一人一人に、神と人との仲保者として働かれ、私達を、天の父なる神に、執り成して下さっています。今、これから、皆で一緒に、「主の祈り」を、日本語と英語をもって、お祈りしましょう。
この「主の祈り」で注目したいことばは、「私たち」といことばです。イエスさまは、ご自分と共に、イエスさまが選んだ者を含めて、「私たち」と言われ、「彼ら」とは言われなかったのです。私達が天の神を、父と呼べぬ時でも、イエスさまは、罪人である私達の所に立って下さり、私達一人一人と一つになってくださり、天の父なる神に、「私たち」というように、祈って下さるのです。一方、イエスさまは、カルバリの丘で十字架につけられた時、「父よ、彼らをお赦しください。」(ルカによる福音書23章34節)というように、「彼ら」といわれたのです。このような「彼ら」という次元を通過した者が、イエスさまに「私たち」と呼ばれるのです。私達がほふられるべきであったのに、代わりに、イエスさまが十字架でほふられ、私達の罪を洗いきよめ、命を与えてくださっているのです。イエスさまは、あたかも、祭壇の上の火でほふられる子羊のように焼かれ、その煙が天に登り、かぐわしい香となって、神に受け入れられ、私達の罪が洗いきよめられ、永遠の命が与えられたのです。
祭壇の前では、私達の内側にあるものが、煙で表されます。カインが主にささげた物の煙は、黒かったのかもしれません。一方、アブラハムが、神の仰せに従って、3日間かけて、モリヤの山に行き、そこで、約束の子、イサクを全焼のいけにえとして神に捧げようとした時(創世記22章1-13節)、恐らく、かぐわしい透明な煙が上げられて行き、神に良しとされ、イサクの代わりに、雄羊が備えられたのでしょう。また、「ルカによる福音書18章9-14節」には、自己義認のパリサイ人の祈りとは対照的に、罪を悔い改める取税人の祈りが示されています。恐らく、そのパリサイ人の祈りからは、焦げ臭い灰色の煙が立ち上り、その取税人からは、香ばしい白い煙が立ち上っていたでしょう。「ローマ人への手紙8章22-27節」には、自然界のうめき、私達のうめき、聖霊のうめきが記されています。神は、祈る人の内側からどんな煙が立ち上るのかを、見ておられるのです。
また、本日の聖書箇所には、悪い祈りとして、「偽善的祈り」や「異教的祈り」が挙げられています。その「偽善的祈り」は、クリスチャンに対する警告です。むしろ、戸を閉めて密室で、神と自分だけの一対一の関係で、祈るように勧めています。私は、ユダヤ教を信じる者ではありませんが、ユダヤ教信者の祈りの姿勢にも、そのような密室での祈りの姿が見えてきます。例えば、エルサレムの神殿の西の壁で祈る、ユダヤ教の人達は、「祈りのショール」を被って、外部と遮断し、神と自分だけの関係で祈っているからです。また、「異教的祈り」とは、天国への救いの恵みを知らない者の空しい祈りです。例えば、「列王記 第一18章22-39節」に記されるように、450名のバール神を拝む者と、唯一の神を崇めるエリヤとが、それぞれの祭壇を築き、それぞれ一頭の雄牛を切り裂き、それをいけにえとして、祭壇のたきぎの上に載せ、火をつけずに、それぞれの神に祈るとき、火をもって答える神が、本当の神であると決めて、勝負をしたことが記されています。その勝負の結果は、バール神に激しく祈り、自分たちの身を傷つけ、血まで流して祈っても、何ら火がその雄牛に与えられませんでした。しかし、エリヤはそのいけにえに水を3度も注いだ後、神に祈った時には、天からの火が降ってきて、そのいけにえなどを、すべて焼く尽くして勝利したのです。
日本の今の中高生の5-6人に1人は、自分の手首に傷をつけるという経験をしているということです。また、日本の自殺者は、2004年で3万人を超え、過去7年間でも、合計21万人の自殺者が出ているということです。そのような、自分の願望に空しさを覚える者達が、イエス・キリストを救い主として崇め、信じて救われるようにと祈ります。
「主の祈り」は、「個人の密室での祈り」であり、また、「共同体での祈り」でもあります。私達の教会では、今年の2005年が、昨年末に起きたスマトラ沖での海底地震による被害からの回復を祈る一年になっています。また、このサンデイエゴ・ノース・カウンテイの地域の人々が救いに導かれるようにという祈りが続けられています。更にまた、私達の教会が借りている現在の礼拝・集会の場所が、やがて借りられなくなるので、新しい礼拝・集会場所が与えられるようにという祈りもあります。
「黙示録8章4節」には、「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」と記されています。また、「創世記18-18章」には、ソドムとゴモラの地が滅ぼされる前に、アブラハムの甥のロトとその家族が、3人の御使いによって助けられるのです。その3人の御使いの中の中心には、イエス・キリストがおられたのでしょう。また、「ダニエル書3章8-30節」には、バビロンに捕囚となったユダヤ人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人が、ネブカデネザル王によって、火の燃える炉の中に投げ込まれたことが記されています。その3人が炉に投げ込まれた時、王には、もう一人の人物が、火の中で、その3人のユダヤ人を守っているように見え、その3人は火の中から出てきたのです。そのもう一人の人物とは、イエス・キリストであったでしょう。
祈りは、御使いや、イエス・キリストを通して、神に届けられるのです。私達は、イエス・キリストを心に迎え、イエス・キリストを通して祈り、感謝を捧げましょう。
6月12日(日)聖日礼拝では、山口光師が、「マタイによる福音書6章9-13節」から、「主の祈り:前半」と題して、次のようなメッセージをして下さいました:
今日は先ず、次の2つのことに感謝して、お祈りします: (A) 去る3月10日のOMS南加宣教大会で、会場献金がなされましたが、その趣旨は、OMS所属教会の中で、特に成長を支えるための教会として、当教会もそのリストに挙げられ、$217.49の献金を戴きました。OMSに所属する多くの教会の方々のお祈りと献金に感謝します。 (B) 来月6-9日のOMS教団夏季修養会に、日本から中島光成先生(兄弟団所属牧師; 米国メノナイト大学院に在学中)が講師として参加され、その後、7月10日(日)には、サンデイエゴ教会と当教会の礼拝で、「和解」というテーマで、お話しされます。私や大倉信先生は、東京聖書神学院時代に、光成先生が先輩でした。今回、このように、サンデイエゴ地区にも、光成先生を送ってくださることに、感謝し、この地の群れを恵みで覆ってくださるようにとお祈りします。
続いて、個人的なことですが、先週6月7日に、家内の喜恵が妊娠の超音波テストを受けた結果、男の子が宿っていることが解り、感謝しています。また、私たち牧師家族は、日曜日毎に、主にある家族の交わりが出来て、嬉しいです。また、月曜日から土曜日までは、私たちは、それぞれの場で過ごす中で、神の者とされたことを証しすることが中心です。私たちは、この世に生かされていますが、この世の者ではなく、神の者なのです。私たちは、世の煩わしさから開放され、救われ、本当の安息があるということを、礼拝でも確認しましょう。私は、神学校の先生が言われた次のことに心をとめています: それは、「礼拝の最後に捧げる祝祷を大切にしよう!」ということです。「神が、あなたを送り出す祝福、恵みと安息、平安をしっかりと受けましょう!」ということです。そのようなことを、しっかりと覚えておきましょう。
本日の聖書箇所は、主イエス・キリストが教えて下さった「主の祈り」です。今日は、その「主の祈り」を、賛美の歌を通して捧げ、祈ったのです。その「主の祈り」を、よく噛み締めて、その内容をよく考え、その意味をよく把握して祈り、賛美しましょう。イエスさまは、そのような「主の祈り」を教える前に、「くどくどと祈るな」と言われ、祈りの内容を把握しないで、ただ形式的に祈っては駄目だと言われたのです。「主の祈り」の前半は、私達と神との関わりの祈りです。また、その後半は、隣人との関わりの祈りです。
本日は、「主の祈り」の前半に示される「神への祈り」について、その内容を、よく把握してみましょう。先ず第一に、祈りは、自分の願望や感情が先となっては、本末転倒となります。心を沈め、最初に、神との関わりをもって祈るということです。そして、第二に、「天のまします我らの父よ」という祈りをもって、「父よ」と呼びかけながら、私達が、罪の奴隷であった者から、「神の子」とされたという、神の深い恵みを覚えるということです。続いて、第三に、次の3つの祈りが捧げられるのです: (1) 「御名があがあがめられますように。」; (2) 「御国がきますように。」; (3) 「みこころが地にも行われますように。」という祈りです。この3つの祈りに示される主語は、すべて、それぞれ「父なる神」で、「父なる神」が、その祈りのようになるように祈るのです。次に、その3つの祈りの内容について、考えて見ましょう。
(1) 「御名があがあがめられますように。」: この祈りは、「父なる神、ご自身が、神の名を聖別して、諸々の神や、他の汚れた霊と区別して、最もきよい、聖なる第一のものとして下さい」という祈りです。モーセの十戒にも、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」という戒めが示されています。イエスさまの時代においても、十戒のみことばを心に留めていましたが、「主の祈り」では、「父なる神」ご自身の方法で、神の名をきよめて下さい。」とお祈りするのです。即ち、聖なる神の前では、私達は、罪に汚れた存在であることを認めざるを得ないという告白なのです。私達自身の存在が小さな器と感じるのとは対照的に、聖なる神の御名だけが、唯一あがめられ、聖別される偉大な存在であることに気付いて、主、イエス・キリストに全権的な主権をもって戴き、主にお委ねしてお祈りするのです。
(2) 「御国がきますように。」: この祈りは、私達が、信仰をもって祈る時、天国を経験できることが示されています。イエスさまによる山上の説教では、「心の貧しい者」や「義のために迫害されている者」に、「天の御国はその人のもの」というように、現在形で約束されているのです。決して、天の御国は、死んでから入るというような未来の世界としてではなく、現在でも備えられることが示されているのです。「マルコによる福音書10章14節」には、イエスさまが、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と言われたことが記されています。これは、霊的に頭の堅い大人のようになるのではなく、霊的に幼児のようになるようにと言われたことなのです。これは、子供と親との関係を支配する、愛情の関係のようなものです。子供が経験する天国には、そういうような、愛の支配と共に、義の支配という2つの支配があるのです。「ルカによる福音書15章11節ー32節」に記される「放蕩息子」のたとえには、父から魂を育てられた息子が、自由を求め、親から離れ、罪を犯し、やりたい放題に暮らしていたが、親の存在を確認して、悔い改め、父親の愛を信じて、父親の所に戻った時、愛の支配を見るのです。また、その放蕩息子が、悔い改めに導かれたのは、父親から既に、義の基準が植えつけられていたからです。その放蕩息子が、神の基準である父の基準を満たすなら、父の赦しが間じかに見えることに気付き、悔い改めて、父の元へ帰っていったのです。「ローマ人への手紙3章23-24節」に記されるように、「すべての人は、罪をおかしたので、神からの栄誉を受けることがでず、ただ、神に恵みにより、’キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義とみとめられるのです。」ということが、私達にも、はっきりと示されているのです。
(3) 「みこころが地にも行われますように。」: 私達の信仰の中においては、神のみこころは、天において完全な形でなされており、すべてのものは、神のみことばが、形となって成就されているのです。そして次に、この地、この場所にも、みこころを見せてくださいという祈りが捧げられるのです。今朝は、ビスタの北方で、震度5.6の地震がありました。その地震の中にあって、私達は、信仰が試されました。「ヨブ記1-2章」には、ヨブが、子どもや家畜や財産全部を失い、全身が悪性腫瘍に犯されても、行き着く所は、神の御国の世界であり、神が圧倒的な支配をなさる神の見ておられる世界に導かれるようにというようにと、祈ったことが記されています。このような祈りは、上記の(2)の祈りに戻されて行くのです。イエスさまは、ゲッセマネの園で、「わが父よ。--− わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と祈りました。イエスさまは、人の子として自分がもつ自我との葛藤において、父なる神のみこころがなるように祈って、悪魔に勝利し、神と人とを繋ぐ仲介者となられたのです。イサクも、自分の命を、父アブラハムに委ねて、主のみこころがなさるように委ねたのです。このように、私達にも、神に委ねる信仰が求められているのです。イエスさまは、十字架に架かる4日前、ギリシャ人を前にして、「父よ。御名の栄光を現してください。」(ヨハネによる福音書12章28節)と祈りました。イエスさまは33年間の地上での生き方を通して、神のみこころがなるように、ご自分の命を投げ出されたのです。イエスさまは、一粒の麦が地に落ちて死んで、やがて豊かな実を結ぶように、イエスさまが、ご自分の生涯を父なる神に捧げて死ぬことによって、人々を生かし、育て、穂がなり、刈り入れの時、やがて、神は、その一人一人をご覧になって、神御自身の栄光を刈り取って行くということを教えてくださったのです(ヨハネによる福音書12章23-28節)。
皆さん、目を閉じて、「主の祈り」をもって、心から、主に祈りを捧げ、感謝しましょう。
6月19日(日)聖日礼拝では、マックルア・マーク先生が、「ローマ人への手紙8章15-16節」を中心聖句とし、「The Calling of Dad/パパへの呼びかけ」と題して、英語で、次のようなメッセージをして下さいました:
父の日おめでとうございます。始めにお祈りいたします。「主なるイエスさま、あなたを通して私たちが父なる神様の子とされたことを覚えて感謝いたします。父なる神様、あなたの御子イエスさまを通して、私は祈ります。あなたがここにいる一人一人を、あなたの御言葉で強め、あなたの霊で満たし、あなたに仕えていけますように。御名によって心からお祈りいたします。アーメン。」
「ダ、ダ、ダ。」これは私の3人の息子が、それぞれ生まれてから最初に口にした言葉です。一番下の息子のジョンは、今2歳半になり、一日中、ダ、ダ、ダと言っているような状態で、周囲の者が苛立つこともあるでしょう。しかし、彼の父親である私にとっては嬉しい限りです。また驚くことに、ジョンは、ここ2、3ヶ月の間に、アルファベットを使うようになりました。そして、ダ、ダ、ダを、アルファベットで、D A D A D Aと呼ぶのです。
今、私にとって最も素晴らしいことが3つあります。1つ目は、イエス・キリストを通して、神様を知ることが出来るようになったことです。このことによって、私自身が地上でどういう者であるかという存在価値を確かめることが出来ます。2つ目は、恵という素敵な女性と結婚できたことです。彼女は、日々、イエスさまに近づき、主にあって成長しています。3つ目は、3人の息子の父であることです。彼らも、父、御子、御霊なる神様の存在を肌で感じながら成長し、イエスさまの愛を受けて大きくされています。
私の人生には、3という数字がついてまわりました。私は、3人兄弟の1人として地上に生を受け、今は、3人の息子の父親とされました。そして、私が知るようになった神様は、父なる神、御子なるイエス・キリスト、そして聖霊様との、三位一体の神です。そして、私は、次の3つの関係を、絶えず意識しています: それは、@ イエスさまを通した神様との個人的な関係; A キリストの体である教会との関係; B この世において、言葉と行動で、キリストの福音を伝えるという関係です。
また、皆さんにも、神様から戴く3つの呼びかけがあります。1つ目は、神様のこの世への呼びかけです。神様は聖書を通して、ご自身の存在を明らかに語り、私達が母の胎にいた時から私達を知っておられたということです。2つ目は、神様の救いへの呼びかけです。神様は、私達がイエスさまを通して、ご自身と愛による永遠の関係を持てるようにと願っています。3つ目は、死後の世界への神様の呼びかけです。キリストを受け入れた者は、栄光の体を受けて天国へ導かれ、キリストを拒んだ者は、永遠の闇の中へと導かれるということです。私達は、今、この2つ目の呼びかけを、神様から受けています。つまり、救いの呼びかけです。イエスさまを通して、神様の愛を受けて下さい。
私の息子達は、自然に「ダ、ダ」と親を呼ぶようになったのではありません。妻と私がそのような呼び方を、何度も教えたから、そう呼ぶようになったのです。また、親が子の名を呼び続けるうちに、子も親を呼ぶことを学び、親と子がお互いに呼び合うのです。そうして、子供達は、私達、親から認められれていることを悟り、また、私達を親として認めていくのです。
父なる神の存在は、その御子なるイエスさまを通してのみ知ることが出来ます。神様は、私達をイエスさまへの信仰を通して、私達が、神様の息子達や娘達になるように招いています。そのために、神様は、私達にイエスさまを通して正しい道を備えて下さいました。私達一人一人は、全て神様の似姿に似せて造られています。その神様の似姿を受けている部分が、私達の魂のどこかで、父なる神の存在を求めています。男も女も、それぞれに神から受けた賜物があります。男性達は、父なる神の似姿を貰い受けていることが、大きな賜物であり、同時にこの地上でその賜物を生かしきる責任があるように思います。
もちろん、父としての賜物を十分に使うためには、男が妻をめとり、その関係が実を結ぶようでなければなりません。でも、男性達が結婚すること以上に必要なことは、彼らが、父なる神様の似姿を持つために、先ず、神様の子供にされなければなりません。そうです!父なる神様のただ一人の御子イエスさまを通して、神の子供とされなければなりません。「ヨハネによる福音書1所12-18節」を読んでみましょう。その聖句を読むと、父と子との間には切り離せない深い信頼があるのがわかります。子なるイエスさまは、ただ父なる神様から聞いたことのみを語ります。「マタイによる福音書11章25節」にも、イエスさまが、常に父なる神様と対話していたことが記されています。また、イエスさまは、弟子達に、イエスさまを仰ぐことは、同時に父なる神様を仰ぐことになる」ということを諭さたのです(「ヨハネによる福音書14章9節」など)。
私達は、天におられる父なる神とは、イエスさまを通してでしか、深く関われません。けれども、地上にいる父親とは、私達一人一人が個人的に関われます。願わくは、地上の父親達を通して、天の父なる神様の姿を想像できたらと思います。今日は、父の日ということで、私達それぞれの「父の思い出」を語り合う時を作ろうと思います。自分達の父親を見つめ直してみて下さい。そこに、天の父なる神様の性質があるでしょうか、探してみましょう。では、これから、スモール・グループに分かれて、10分ないし15分、語り合う時を持ちましょう。ご夫婦や家族で来ている人達がいたら、分かれずに、一つのグループになって下さい。
=== グループ毎に、「エペソ人への手紙6章4節」を読み、お互いに分かち合いの時を持ちました。その後、各自、席に戻り、マーク先生から、次のような締めくくりのメッセージを戴きました:===
皆さんの父親の思い出はいかがでしたか?ある人にとっては苦い思い出のみが思い出されたかもしれません。そしてここにいる誰もが、私の父は完璧な父親だ、とは言い切れなかったのではないでしょうか。天の神様のみが、完璧な父親です。もし私達が地上の父親から苦い経験を強いられたとしても、天におられる私達の父なる神様からは、イエスさまを通して、完全な愛情を受けることができます。ここで、「ヨハネによる福音書14章6-11節」を拝読します。私達は、イエスさまを知り、本当の父と出会います。地上のすべての父達は、イエスさまの霊を受けて初めて、真の父らしく成長し、魂の父なる神様の性質を帯びることが出来るのです。
私達の文化では、父親が一家を支配するという考えがありますが、それは何だかおかしいようにも思います。聖書では、男が王様なる一家の頭、という見方をしているでしょうか?クリスチャンとされた男性は、イエスさまのようにへりくだるべきです。家族のメンバーを、王のように上から押さえるのではなく、しもべのように仕えながら、家族を清く保つべきです。キリストが、私達のために命を捧げたように、夫たる私達は、妻と家族のために命を捧げるように、神様に求められていると思います。
昨年ここでお話ししたように、私は、長男息子リッキーが長崎で生まれた時、あまりにもその命が尊く見え、神様に祈らざるをえませんでした。私は、リッキーの誕生を見た時、私自身が天の神様と直接繋がらなければ、私自身が息子にとってよき父親にはなれないと、知らされたのです。今年は、私の次男息子カズマの話をしましょう。カズマが誕生した時、恵と私は夫婦とされて3年が過ぎるところにいました。恵はその時まだ信仰を持ってはいませんでした。そしてカズマが生まれた頃の私達夫婦は、夫婦として疲れきった危ない状態に置かれていました。カズマが誕生した頃の私達夫婦は、けんかばかりしていたので、そのカズマの中に、今も不安定な要素が見出されています。全ての人間は、その命が母の胎にある時から2、3年のうちに、人間の基本的な性格が出来上がってしまうと言われます。幸いなことに、神様がイエスさまを通して私達の基本的な部分を変えて下さいます。そして、本質的な素性も変えて下さいます。カズマもクリスチャン・ファミリーとされた我が家で成長し、私達の父なる神様の愛を受けて安定してきました。
イエスさまは、「ヨハネによる福音書6章35節、37節」で、こう言われます:「35節: わたしがパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。37節: 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」父親になったら誰もが願う願いがあります。それは自分の子供が飢え渇くことなく、その命が無駄になることがないようにとの願いです。キリストにある父親の願いも、永遠にその通りです。皆さんは、その父に願われた子供です。ハレルヤ!
今から、皆でお祈りをしましょう。先ず、スモール・グループの相手のために祈りましう。続いて、私達の父のため、また、息子や娘を自分より先に失った父達のために祈りましょう。また、自分の子供を持つことがなかった、男達、女達のために祈りましょう。また、自分の子供は持てなくても、親同然のように、若い魂を育て、養ってきた者たちのために祈りましょう。また、単身赴任の父親達のために祈りましょう。又は、何かの事情で、自分の子供や家族との交流を断ってしまった父親のために祈りましょう。
神様、あなたは、あなたの知恵と愛をもって、全てを形造りました。私達は、あなたが世の父達、男達を祝福して下さることを願います。あなたの祝福と励ましを受けて、彼らが信仰を持てますように導いて下さい。信仰者である父親達の、信仰と愛の行動を周囲に輝かせて下さい。主が、私達一人一人を、あなたの息子、娘として、全てを備え、キリストを通して与えて下さいますように。そして、私達が聖霊の力を戴いて、父達に敬意を払い、あなたの御業を褒めたたえることができますように、導いて下さい。この祈りを私達の主なるキリストを通して捧げます。アーメン!
6月は、教会年度が新しく切り替わる月です。昨年度は、私達の教会(NCJCC)では4名が洗礼を受けました。一人の家族が救われると、皆が喜びで輝き、主の恵みに感謝しました。でも、OMS教団所属教会の中では、牧師の不足している教会として、サンロレンゾ教会、ホノルル教会、ウオールナッツ・クリ−ク教会、サンデイエゴ教会などがあります。日本宣教の奉仕をされてきた篠田リリアン先生は、近く米国に戻り宣教報告をされて後、また、日本に戻られます。私達は、教会年度変わりの月に当たり、自分達の教会のことだけではなく、OMS教団所属教会も、共に、主のきよい導きを戴き、愛と平安をもって、新しい出発が祝福されて行くようにとお祈りしましょう。
今日の聖書箇所は、ヨシュアが、同胞数百万人を連れて、カナンの地に入るように、神に命じられ、恐らく戸惑った時、神は、ヨシュアに対し、メッセージを通して、励まし、慰めて下さったのです。私達の教会、NCJCCも、さまざまな経験を通して、神が、NCJCCの教会員一人一人を励まし、慰め、押し出して下さり、今日の姿があるのです。でも更に、神は、私達の教会を、もう一つ新しい場所へと移され、神の御業を宣べ伝え、更なる広がりの世界を見せようとされていることを覚えます。
今から約2,000年前のペンテコステの日に、エルサレムで救われた三千人が、それぞれの口を通して、神のメッセージが各地に、年毎に、世界に広がって行きました。その2,000年後の今も同じように、私たちの口を通して、神のメッセージである福音が伝えられて行くように、神は、私達を、そのような福音を伝える道具として用いるのです。そのようにして、神の領域が広がって行くのです。神は、私達に「動け」といわれ、私達は「戸惑い」を覚え、更に神は、「動け」と言われ、私達を動かして行くのです。
聖書に記されるように、アブラハムは、「動け」という神の声を聞いて、「はい」と答え、神の導きに従って旅を続けたのです。その間にはアブラハムにも戸惑いもあったかもしれません。でも神の声に聴き従ったのです。アブラハムの妻、サラは、そのような旅に不安があったでしょうが、神の約束を戴いた夫に信頼し、夫婦共に、神に動かされて行き、奇跡を経験したのです。
「ヨシュア記1章の6節」には、神がヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」という励ましのみことばを与え、7節、9節にも、同じように神の励ましがヨシュアに与えられ、合計3回も、同じ繰り返しの励ましのみことばが記されています。ヨシュアは、モーセの信頼する忠実なしもべでした。イスラエルのリーダーであったモーセが天に召され、ヨシュアが、次のリーダーになるようにということが、神から示されたのです。ヨシュアは、神にも忠実な人でしたから、1回聞けば、すぐに聞き従えた筈です。しかし、この時、神は3回も、繰り返し、「強くあれ。雄々しくあれ。」というように、励まし、神が、ヨシュアと共にいると約束するのです。多分、神は、ヨシュアにあった不安を見て、「大丈夫だよ」と3回も力づけたのでしょう。
ヨシュアは、モーセが120歳で死ぬ直前にも、モーセから、同じように、「強くあれ。雄々しくあれ。」と2回、繰り返して、同じことばで励まされています(申命記31章6節、7節)。そして、モーセは、ヨシュアに、同じように、「主があなたとともにおられる。」(申命記31章8節)と力づけていたのです。羊飼いであったモーセは、80歳の頃、神からの命令として、「エジプトに行き、エジプトで奴隷となって苦しむ同胞を救え」と言われたのです。その時モ−セは、神に対して、「自分が、同胞の民に、そんなことを言っても、人々は私の言う事には従いません」と返事をしました。しかし神は更にモーセに、「わたしはあなたとともにいる。」(出エジプト記3章12節)と力づけ、エジプトに行くようにと命じられたたのです。そして、モーセは、神の召しに従い、その後40年間に亘り、最も苦しい経験をしますが、主がモーセと共にあって、強く、雄々しくなることが出来たのです。
ヨシュア自身は、これから行くカナンの地は、既にカレブらと共に入って見て来たことがあり、よく知っていたのです。でも、以前なら、同胞のリーダーであったモーセに従って行けばよかったのですが、もう既にモーセは死んでいたのです。また、カナンのには、イスラエルの神とは違う神を拝む者達で、体も大きかったのです。ヨシュアは、自分達同胞が、ヨルダン川を渡ってカナンの地に行けば、戦いがあること予想し、誰よりもその危険を知っていたでしょう。そして、もうリーダーであったモーセは死んでしまったので、もうモーセに頼ることもできず、不安感だけで安心感はなかったでしょう。ヨシュアは、誰か自分の代わりにリーダーになってくれる人はいないかと悩んだでしょう。しかし、その時、神は、ヨシアに、「強くあれ。雄々しくあれ。わたしがあなたとともにいる。」と励ましたのです。このように、神は小さくて弱い者、誇らない者をお用いになり、神の御力の栄光を現されるのです。
私達の教会は大きくなく、ヨシュアがカナンに向かって、ヨルダン川を渡る前のような気持ちになるかもしれません。でも、神がヨシュアに「恐れてはならない。おののいてはならない。」と励まされ、ヨシュアを用いて、地境を広げられたように、神は、私達を励まし、私達を用いて、神の地境を広げられようとしていることを覚えます。私達は、そんなことは考えられないというように、否定し勝ちになります。しかし、神は、私達に、みことばをかけ、力と知恵と勇気を与えて下さり、地境を広げて下さると思います。「歴代誌 第一4章9-10節」には、ヤベツが、苦しみの中から神に呼ばわって、地境を広げて下さいと祈り、神は、その願いをかなえられ、ヤベツを祝福したということが記されています。ヤベツは、悲しみのうちに生まれ、”苦労”という意味の”ヤベツ”という名が付けられたのです。恐らくヤベツは、肉体的障害をもっていたかもしれません。でも、神は、ヤベツの願いを叶え、祝福されたのです。神は、小さな弱い者を用いて、神の栄光を現されるのです。
先週金曜日の地区会で、サン・マルコスの教会にいる卯悦子さんから、次のようなお証しがありました。「私は、今、サンデイエゴ地区でに住んでいますが、昔は、中国人の主人と二人の子供と共に、北京に住んでいました。三人目の子供を北京でみごもった時、その子供は先天性脳水腫であると診断されました。その時わたしは大声で神に泣きました。これは、恐怖で泣いたのではありません。神が、ここから何かをして下さるという感動で泣いたのです。私は、結婚のため、日本から中国に移る前に、日本で洗礼を受け、北京でも、信仰をもって、教会に出席していました。私がみごもったこの三番目の胎児を、中国では治療できないので、米国のサンデイエゴの病院で治療を受けるように勧められました。そこで、二人の子供は、夫の親が、北京で面倒をみてくれることになり、私は、サンデイエゴにいる夫の妹の所に身を寄せ、教会にも共に通い、とりなしのお祈りをしてもらいました。しかし、サンデイエゴの病院でも、その胎児の手術はできず、出産し、”シャロット”という名前が付けられました。そして、その子を通して、家族全員が神に感謝できる信仰ををもったのです。しかし、その子は、生まれて2ヶ月後に死にました。でも、神は、その子を通して、私達家族一人一人に語りかけて下さったことを覚え、神に感謝するのです、そして、私は、このような証しをする度に、喜びがわいてくるのです。」普通の人なら、出産を前にして、障害をもつ胎児は、中絶するでしょう。でも、悦子さんの場合は、その逆でした。ヤベツも、同じように、苦しみを通して神に祈り、前代未聞の恵を戴き、地境を広げ、生きる領域を広げるという祝福を戴いたのです。教会のあり方もそれと同じでしょう。
現代の日本の若者の中には、引きこもり、閉じこもり勝ちな人が多く、そういう人は、他人との関係を持つ世界から離れ、自分だけの世界に閉じこもり、地境を小さくしてしまうようです。ヤベツも引きこもり、閉じこもり勝ちの生活を送っていたかもしれません。でも、神に呼ばわり、力と勇気を戴き、一歩ずつ足を踏み出して行って、地境を広げたのです。私達も、苦難に出会っても、神が私達の人生に介入して下さり、引き上げて下さるよう、”Lift Me Up!”と、神に祈りましょう。そして、そうすれば、神は、私達を、試練から遠ざけて、神の素晴らしい御業を見せて下さるでしょう。
ヨシュアは、数百万人人の民を引き連れて行くという自分の姿や、その行き先のカナンの地で戦いをしかけられれることも想像して、引きこもりの気持ちになったかもしれません。でも、そのヨシュアも、神の支配の中で、乳と蜜の流れる肥沃な地であるカナンに行けば、祝福を見せて下さることに期待し、神のみことばに聴き従って、動かされたのです。「ヨシュア記1章2-3節」には、神がヨシュアに仰せられたみことばとして、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモ−セに約束したとおり、あなた与えている。」と記されています。このように、ヨシュアは、カナンの地に向けて出発する前に、もう既にカナンは、ヨシュアたちに与えられたものとして、「先取りしろ」と、神から言われたのです。そして、ヨシュアは、神から、「足をしっかりと地に踏みしめ、逃げることなく、大胆に前進しなさい。」と励まされたのです。そのような神からヨシュアへのみことばに聴き従ったヨシュアの一行は、モーセの一行が、エジプトから紅海を歩いて渡れたように、ヨルダン川を渡る時に、川の水が左右に分かれ、歩いて渡れたのです。
私達の教会は、2003年元旦から、このオーク・ヒルズ教会の会堂施設をお借りしての礼拝・集会が始められました。私達夫婦は、ここまでくるのに大変祈らされたのですが、その年に娘が生まれ、その子を「祈(いのり)」と名付けた次第です。今年は、私達牧師一家に、2人目の子、男の子が与えられます。今私達の置かれている状況から、その子がヨシュアのように、神のみことばに聴き従って、前進して水を分けて歩いて行けるようにという願いを込めて、「渉(わたる)」と名付けることにしています。「渉」という字が示す通りです。
「ヨシュア記13章1節」には、「まだ占領すべき地がたくさん残っている。」と示されています。私達が、神の恵みを忘れそうになり、神が私達に仰せられる「チャレンジ」を忘れた頃、神は、私達、NCJCCの者達に、このような御声をかけて下さっていることを覚えます。神は、私達に、このサンデイエゴ・ノースカウンテイの地境を広げると約束して下さっています。私達は、神からの力と知恵と平安を戴いて、信仰の第一歩を踏み出しましょう。神が、私達の先頭に立って進んで下さるので、愛と希望と信仰をもって、主を仰ぎつつ前進し、主が私達を用いて、主の御業が次々と成されて行きますようにとお祈りしましょう。
光岡恭平通信員