2004年10月3日(日)聖日礼拝では、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクール教師のライカード・ハイデイ先生と子供ら8人も、共に礼拝堂に集り、ハイデイ先生は、その子供たちに、次のようなメッセージをされました:
今日は、「良い知らせ」についてお話ししましょう。リッキー!立ち上がってこちらに来なさい。この顕微鏡(玩具)をあげます。(リッキーは、顕微鏡をもらって席に戻りました。)カズマ!立ち上がってこちらに来なさい。この冠をあげます。(カズマは、冠をかぶって席に戻りました。)カズマ!君は、今、英国の王様になるように選ばれたので、飛行機で英国に着きました。その空港には、人々が出迎えており、リムジンも待っているのですよ。
あなたがたの中から一人だけ、子供として、どのようにして、そのようなに重要な地位につくようにと選ばれたのでしょうか?これは、とても驚くことですはないですか?残念ながら、この世界では、こんな重要な大切な仕事は、大人だけがする仕事のように見えますね。でも、神の御国では、それとはとても違います。旧約聖書時代のヨシュアは、たった8歳の時、ユダの国王になったことを知っていますか?また、2匹の魚と5つのパンを持っていた少年が、それをイエスさまに差し上げて、それによって、イエスさまは、男5,000人、女も子供も入れて恐らく10,000人の人々に、食事を与えるという奇跡をなされたのです。皆さんは、このようなことは、大昔になされたことであると思い、もう、神さまは、今の時代では、もうそのようなことはなさらないと思っているのではないですか?でも、神さまは、まだ現代でも、力強い方法で、子供たちを用いてくださっているということを、これからお話ししましょう。
その一つのお話しは、1900年頃のことで、私にとっては、祖父母の時代の話です。ある小さな女の子が、教会の近くに住んでおり、その教会のサンデー・スクールは混み合っていたので、その牧師は、その女の子に「このサンデー・スクールに出席したい人が、全部入れるような、大きな教会建物を、いずれ持ちたい」と話したことがありました。後になって、その少女は、8歳か9歳の頃、病気になって死んでしまいました。そこで、その牧師先生は悲しみ、メモリアル・サービスを行いました。その時、その少女の母親は、その娘が大きな教会を建てるのを援助するために、お金を節約してきたことを、その牧師先生にお話ししました。そして、その少女がそのために蓄えてきた57セントの入った財布を、牧師先生に手渡しました。牧師先生は、その57セントを、57個のペニーに交換し、そこに集まった会衆に、その少女の話を伝え、その57個のペニーを展示して販売しました。すると、1ペニーを$10で買って寄付する人や、$5で買って寄付する人などによって、全部で、$250の寄付金が集まりました。その頃の$250は大金でして、大きな土地や、充分な人数が入れるサンデー・スクールなどの建物も持てるお金でした。これは、フィラデルフィアのグレイス・バプテスト教会の話しで、その$250の寄付金で、近くの家を購入し、サンデー・スクールが出来上がり、また、その建物の中に、大学も出来上がり、更に病院も出来上がって、治療もなされて行ったのです。このような素晴らしい教会発展は、まさに、あの少女の夢と祈りに対する素晴らしい証しです。
さて、次のお話しも、あなたがた子供にとっては、ずーと前のことになるでしょうが、そんなに遠い昔のことではありません。ある小さな少女が、5歳の時、近所の人に招待されて、サンデー・スクールに行ったのです。そのサンデー・スクールの先生が、「どうしたら、イエスさまと永遠に共におり、天国行けるか」ということについて、その少女に話しをしたのです。その少女は、「それは素晴らしいことだ」と知ったので、イエスさまを受け入れました。彼女は、成長して行き、毎週、教会に行くことを、非常に悲しくなりました。と言うのは、彼女の家族には、一人もクリスチャンがいなかったからです。彼女は、いずれ、いつの日にか、クリスチャンの家族が持てるようにと祈り始め、彼女の母と父がクリスチャンとなるようにと祈りました。しかし、そのようになることは、彼女には不可能に思えました。何故なら、彼女の両親は、イエスさまとか教会と一緒になって何かするということは嫌っていたからです。でも彼女は祈り続けました。そのような祈りが長年続いた後、神は、その少女が、彼女の妹と福音を分かち合うように用いてくださり、それによって、彼女の妹は救われたのです。その後、また、彼女のめいとおいも救われました。また、彼女の親友も救われ、その男と結婚した女も救われました。ある時、彼女が思ってもいないことが、最後に起こりました。それは、彼女の母が救われ、その後、彼女の父も救われたということです。そのような救いは継続しています。今は、彼女の近親家族全部が救われています。更に、彼女のおば、いとこも救われました。彼女は、そのおばは、決してキリストを受け入れないであろうと思っていました。それは、とても難しくて出来ないことであろうと思われたのです。しかし、2-3ヶ月前、彼女のおばはキリストを受け入れたのです。その「彼女」とは、「私」のことで、そのおばは、私たちの家を訪問してくださり、去るイースターの日には、一緒に礼拝しました。私は、神が、私を直接、あるいは間接的に用いてくださり、全部の一家族を、神の国へと連れて来られました。もし、私が、神さまに聞き従わず、私の家族のためにお祈りしなかったら、どうなったでしょうか?そうしたら、本当に大きなものを失ったでしょう。そして、私の家族は全部で何人、天の御国に行くことがなかったでしょうか?神は、たった5歳の少女を用いてくださり、ビリー・グラハム先生のような大人がするような、驚くようなことをなしてくださったのです。
「マタイによる福音書19章14節」には、「しかし、イエスは言われた。”子どもたちを赦してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」と記されています。私たちが、聖霊さまと親密に繋がり、聖霊に満たされ、心を一つにし、多くの子供たちが祝福を戴き、その家族も祝福されて行きます様にとお祈りしましょう。
続いて、同日の聖日礼拝で、山口光師は、「創世記26章2-57節」を中心聖句として、「夜空の星のようになれ」と題し、次のようなメッセージをくださいました:
本日の聖書箇所は、神が、アブラハムの息子、イサクに仰せられたみことばですが、「創世記15章5-6節」に記されるように、神は、アブラハムにも同じように、語られています。神は、子供も孫もいないアブラハムに、「あなたの子孫は、このように(数多くの)星のようになる」と仰せられたのですが、私たち一人一人も、そのような神の語りかけをもらって行きたいと思います。結婚しても子がいない人も、所帯をもっても孫を持たない人も、神は、一人一人になしてくださる未来の可能性を信じ、子供たちも、星のようにきらきらと輝く存在となり、その次の世代にも福音を伝え、他人にも伝道して行き、御国の建設のために、神が、私たちを用いてくださり、導き、助けてくださるようにと、お祈りしましょう。
神は、アブラハムとイサクという二代に亘って、同じことを語られたのです。ウル(今のイラク地方)で生まれたアブラハムが、神の仰せに従って、ウルを出て、カランに行き、更に、エルサレムの近くにまで旅をした時、神は夜空をアブラハムに見せて、「あなたの子孫は、このように(数多くの)星のようになる」と仰せられたのです。同様に、イサクにも、同じように仰せられたのです。この神のみことばは、イスラエルの全部族へのメッセージですが、それをどのように受け止めたらよいでしょうか?このみことばは、第一に、アブラハム、イサクの子孫繁栄の預言です。また、第二に、このみことばは、霊的なものも含まれており、信仰によって信仰の子孫は増えるということで、聖霊を通して、信仰によってアブラハムの子孫となるということです。
本日の聖書箇所には、「イサクが、ペリシテ人の王アビメレクのところに行った」ということが記されていますが、そのアビメレクは、イサクをねたみ、恐怖感を持ち、イサクらの信仰者を追い出し、井戸を取り上げてしまうのです。このペリシテ人の王といわれるアビメレクは、アブラハムにも現れましたが、その時代のアビレメレクは、神を信じる王でした。しかし、時代が変わって、イサクの時代のアビメレクになると、神から離れてしまったのです。アブラハムの家族でも、神から離れた「ケトラ」という妻もアブラハムにおり、その妻によって6人の子供が与えられています(創世記25章)。このように、アブラハムには、子孫の繁栄がなされて行きましたが、「創世記15章」に示される「信仰の継承」による繁栄は、ケトラを通じてではなく、また「ハガル」を通じてでもありませんで、アブラハムとサラに与えられたイサクが、アブラハムの信仰を受け継いだのです。このようにして、アブラハムが信じる信仰が、イサクの手渡され、イサクに手渡された信仰が、ヤクブに手渡され、ヤコブに手渡された信仰が、12人の息子たちに手渡されて行ったという一連の過程の中に、「信仰に生きるという目的」を見ることが出来、これが、信仰者に見えてくる共通の目的なのです。そして、そのような信仰を持った者の中で、誰が牧会し、また、誰にその牧会を手渡した行くか、また、伝道は誰に対してなしたらよいのか、誰に対して、主からの恵を手渡したらよいのかというように、それぞれ、信仰を手渡して行くのです。
今日のキッズ・タイムで、ハイデイ先生からのお話にあったように、先生は、小さい頃から、家族の中で、この人にも、この人にもと、信仰を伝えて行きたいという思いがあり、夢があり、家族の中で、イエス・キリストを信じる者が、一人一人と起こされ、大きな未来を見てこられたのです。先生は、目に見えないお方、神を信じないといけないと、本当に、信仰の世界に挑戦して、信じる人が、星のように生まれたのです。アブラハムが生まれたウルは、都会的な町でしたから、夜空はそんなに暗くは見えなかったでしょう。しかし、アブラハムが、ウルを離れて、カランを経て、羊飼いとなり、夜を通して羊の番をしながら、狼から羊を守り、光りのない暗い夜と向き合い、日毎に、朝日の昇るのを、希望をもって待っており、朝日の輝きを喜び、安堵感に浸ったでしょう。神は、アブラハムを呼び出して、夜空に宝石のように輝く星を見せたのです。アブラハムの二代目のイサクにも、同じように、夜空の星を見せて、「あなたの子孫は、このように(数多くの)星のようになる」と仰せられると共に、「神の声に聞き従い、神の戒めとおきてとおしえを守るということ」(創世記26章5節)の大切さも、はっきりとお示しになったのです。
ここで、「星」について考えてみましょう。星は、地球や月と同じように、太陽から受けた光が反射され、輝いているのです。その星の輝きは、神からの光が当てられて輝いているような姿です。そのような神からの光とは、神からのことばであり、それは、戒めであり、命令であり、おきてであり、おしえです。「ヨハネによる福音書」に示されるように、そのような光やことばとは、受肉されたイエス・キリストであり、そのイエス・キリストに照らされる星の輝きは、イエス・キリストに似た輝きとなっているのです。ハイデイ先生は、5歳の頃から、信仰の世界に入り、自分の家族が、信仰のない暗い世界に住んでいるのを見て、悲しみ、唯一の神に祈り続け、星が輝いて行くようでした。
ところで、その星には役割があったのです。それは、人々を、正しい方向を指し示すという役割です。今日の世界には、多くの教会、教派がありますが、それらの教会は、教派を超えて一つ一つが星であり、神のことばに立って、正しい方向を指し示すという役割が与えられているのです。昨日、教会員の一人から電話で、「私の兄の嫁が召され、複雑な気持ちとなってしまう」ということを伝えて来ました。確かにその本人にとっては、重苦しい夜のようであるでしょうが、私は、「神は、あなたが、そのような暗い夜の中で、輝く星のように、イエス・キリストの光りをもって、証しして行くように言われているのですね」と、話し合いました。
先月、私たち家族3人は、2週間の里帰りで、東京での2つの御用も済ませ、京都に2泊旅行をしようという時、私の両親と家内の母と妹も同行したいということで、7人の京都旅行となりました。京都には、私たちの伯父夫婦が住んでいますので、そこに宿泊さてて戴きました。その伯父夫婦は未信者で、私たち7名のクリスチャンが、その家に押しかけて行ったのです。すると、夜毎に、話しに花が咲き、伯父の奥さんは、2年前に父を亡くし、弟も亡くし、また続いて母も亡くしたという話しも聞きました。そして、伯父夫婦は、慰めを求めていたようで、私たち7人のクリスチャンの話しを聞いてくれ、私たちが、未信者の伯父夫婦を訪問したということに、神のご計画を覚え、感謝しました。何時の日にか、伯父夫婦が、教会に行くようになることを祈っています。神は、私たちの伯父夫婦を訪問した7名を、7つの星座のように組み合わせてくださいました。そして、その星座の中で、1歳の祈は、ずーと伯父夫婦に愛想を振り撒き、伯父夫婦の心を開いてくれたようでした。
「ヨハネによる福音書12章35-36節」には、「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩くものは、自分がどこにゆくのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」と、イエスさまに弟子たちに言われたお言葉が記されています。このお言葉の中には、「光」という言葉が5回も繰り替えられれています。イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンたちは、世の光となって、人々に福音を伝え、7年間の艱難時代が来る前に、天に挙げられるという携挙にあずかります。しかし、その時、未信者の人々は、地上に残され、やがて地上に来る、飢饉、自然災害、戦争、疫病などの苦しみに遭うという、7年間の艱難時代という闇の中を歩くことになり、その間は、聖霊が働かない時代です。その時、夜空の暗闇に、都会のような光をもって、人々を惑わす偽キリストも現れます。そのようなことを、イエスさまは、警告されているのです(マタイによる福音書24章4-8節)。
「創世記26章17-22節」には、イサクが掘った井戸の水が奪われて行くことが記されています。その「水」とは、「光」と同じように、欠かせぬ要素です。そのような「水」を奪う者、「光」を奪う「闇」が、力をもってやって来る時、神は、それに備えをしてくださいます。その第一の備えとは、「神は、全人類の罪の贖いのために、罪のない御子が十字架上で死んで、三日目に復活し、人類の罪を赦し、きよめ、よみがえりの世界へと導いてくださる」ということです。また、その第二の備えとは、「終わりの日に備えてくださり、死に向かわせる罪のサタンを永遠に滅ぼし、クリスチャンに、永遠のいのちを与えてくださる」ということです。イサクにも、また、クリスチャンの一人一人も、光の中を歩む光の子として、星のように輝く者となって、天に行く備えが出来ているかどうかが、問われています。時には、不安や同様があるとしても、聖霊様が、私たちの心の扉をたたいてくださるので、ありのままの姿で、主、イエス・キリストの前に出て行き、天に行く備えが出来て行くよう、主にお委ねしましょう。
10月10日(日)聖日礼拝で、山口光師は、「創世記27章」を中心聖句として、「2種類の誓い(Esau's Vow v.s. God's Promise)」と題し、次のようなメッセージをされました。そのメッセージに先立ち、会衆一同と共に、「使徒信条」の日本語と英語でもって、私たちの信仰を告白しました。
本日の聖書箇所の「創世記27章」に関連し、「民数記30章2節」のみことばを読んでみましょう。そこには、「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」と記されています。それは、「天を指して誓ったことは、変更できず、その通りに実行しなければならない」ということです。「創世記27章」は、そのことを思わされる箇所です。アブラハムの息子、イサクにの家族には、人間的なかけひきが見られ、その双子の兄弟であった長男のエサウと次男のヤコブとの間にも、そのようなかけひきが見られます。エサウは、嘗ての軽率な「誓い」によって、長子の権利を、ヤコブに売ったのです(創世記25章33節)。
しかし、エサウとヤコブが、母リベカの胎内にいる時、既に、リベカは、「神からの約束」として、「兄が弟に仕える」(創世記25章23節)という仰せを聞いていたのです。このような、「エサウの軽率な誓い」と、「変わることがない、真実な、神からの誓い(約束)」の結果は、本日の聖書箇所の「創世記27章」に見ることが出来ます。「創世記27章」は、いわば、「刈り取りの章」であり、嘗て蒔かれた種が、芽を出し、実り、刈り取られるというように、種のように蒔かれた預言のことばが、成就され、刈り取られて行くということが、人間の次元でも、神の次元でも、同様に起こって来ることが示されています。「天を指して誓った人の言葉は、決して忘れられず、必ず、自分に帰ってくる」ということも、「神の約束は必ず成就される」ということも、聖書に描かれています。次に、「エサウの誓い」と「神の約束」について、比較してみましょう。
「エサウの誓い」: 「創世記25章27-34節」に記されているように、猟師であり、父から特に愛されていたエサウが、飢え疲れて、野から帰った時、天幕に住んで母から特に愛され、家庭的な弟のヤコブが煮ていた「赤いの」、「赤い物」という「赤いシチュウ」のような料理を食べさせてもらうため、ヤコブから言われた交換条件をそのまま了承して、エサウは、自分が持っていた長子の権利を、ヤコブに売ってしまったのです。当時は、族長時代で、長子の権利は、最も尊重された権利で、神からの祝福も継承するものでした。しかし、エサウはそのような長子の権利を軽蔑して、手放したのです(創世記25章34節)。イエスさまは、「山上の説教」で、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」(マタイによる福音書5章34節)と言われ、「軽率な誓いをするな」と諭されたのです。エサウは、長子の権利を尊重せず、神に背を向ける行為に走ると共に、軽率に長子の権利をヤコブに売るという誓いをし、後で、その誓いを忘れ、呪いを蒙ることになったのです。
私たちが、エサウのように、人に対して、また神に対して吐いた言葉によって、どこかに縛られるような思いになり、やり直しておきたかったとという願いに迫られたなら、悔い改め、解放され、自由となりましょう。一方、ヤコブは、エサウを反面教師として、長子の権利を尊重し、天国に望みを置き、父なる神に信頼を置き、目に見えない祝福を貪欲に求めて行ったのです。反対に、恵あふれる神をうとましく思ったエサウは、神にうとまれたのです。
今、暫くの間、黙祷をし、心の中にある咎めとか、縛られている部分があるなら、神にそれを表明してみましょう。例えば、クリスチャン同士の中で、相手と違った考えで、縺れがあるなら、心を合わせて、次のようにお祈りし、心から、主に赦しを求めましょう: 「神よ、エサウの姿に自分の姿を重ねて見ます。私の軽率な言葉や行いを、お赦しください。私は、天と人に対して、その場の軽はずみで、軽率な約束をしてしまい、そのような軽はずみな自分の言葉に、今、責められて、締め付けられています。どうかこの者をあわれんでくださり、この者の言葉の罪をお赦しください。イエス・キリストの十字架による贖いに感謝し、お祈りいたします。」
このようにお祈りするとき、のろいから解放されて、自由とされるのです。エサウは、そのような祈りをしたでしょうか?そうではなかったようですね。「創世記26章34-35節」には、「エサウは、四十歳になって、ヘテ人の2人の娘を妻にめとり、彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった」ということが記されています。彼女たちの神は、ヤハウエの神とは違った神であり、おろかな誓いをするようにそそのかすような神であったのでしょう。その頃、イサクは老年になり、視力が衰え(創世記27章1節)、恐らく霊的な視力も落ちてきて、神との個人的な関係にも背を向けることもあったでしょう。リベカは、そのように老化した夫のイサクを介護し、助け、夫の代わりに目となり、神に、とりなして行き、神の代わりになって、夫に仕えて行ったのでしょう。そして、エサウが四十歳になった頃、リベカは、嘗て、エサウとヤコブという双子を胎内に宿した時、神からいただいた誓い(約束)のおことば(創世記25章21-23節)を思い直していたのではないでしょうか。
「神からの真実な誓い」: 「創世記25章21-23節」には、神は、双子を宿したリベカに、「あなたの胎内にある兄が弟に仕える」と仰せられた「神の誓い」が記されています。そして、「創世記25章27-34節」や「創世記27章」などに記されているように、兄のエサウから長子の権利を受けた弟のヤコブが、神の祝福にあずかることになったのです。それまで、リベカは、実際に、ヤコブが長子の権利を受け、ヤコブがイサクの後継者となって、祝福され、ヤコブから出る国民が、エサウから出る国民より強くなるという、「神の誓い(主の約束)」が成就されるのを見せてもらうまで、その「神の誓い」をあたためて置いたのでしょう。
「ヘブル人への手紙10章23節」には、「約束された方は真実な方ですから、私たちは、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか」と記されています。このみことばは、私が、東京聖書学院の2年生の終わりの時、先輩から示されたのです。その時は、これから最終学年に入って、信仰の篩にかけられ、牧師、あるいは宣教師などとなって派遣されることが決められて行く時期でした。私は、この「ヘブル人への手紙10章23節」のみことばが、強く示され、神が私を召してくださったことを信じるしかないということが確信でき、献身へと導かれ、今は5年となります。同様に、リベカは、20年間も待たされて出産した後、更に、40年間に亘って、神のことばは、必ず成就するという真実を信じ続けて来たのです。リベカは、夫のイサクを介護しつつ、天に希望をもって、神の約束が成就する日を待ち続け、それが成就されて行ったのです。
今年の当教会年間標語は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒行伝16章31節)のみことばに基づき、「みんなでファミリイ・チャーチをつくろう」となっています。神は真実なお方で、約束のことばを与えてくださるお方です。私たちも、神の真実なみことばに信頼して、そのみことばが成就されるのを待ちましょう。ヤコブは、貪欲に主の祝福を求めて、大いに祝福されました。神は、求める者に、惜しむことなく、天の御国から祝福を与えてくださるのです。「天地は滅び失せても、神のことばは、滅びない」という神からの語りかけを信じて行きましょう。
10月17日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「創世記28章1-9節」を中心聖句として、「エサウに学ぶ」と題し、次のようなメッセ−ジをくださいました。
今日の開会の祈りで祈られたように、病床にあったダニエル・シャノンさんが、去る金曜日、天に召され、今日は、それから三日目の安息日です。まだ、奥さんの竹子さんやご遺族の方々も、心を痛めています。今、皆と共にお祈りし、イエスさまが、十字架上での死を通過して、三日目に蘇られたことを覚え、竹子さんはじめ、ご遺族やご友人の方々、未信者の方々が、蘇られたイエスさまを、心に留めることができ、慰めと平安に導かれるようにと、お祈りしましょう。
今日、サンロレンゾ日系キリスト教会は、75周年を迎え、その記念礼拝が捧げられ、今は、その祝宴中かもしれません。その教会が、75年間に亘り、世代を超えて継承して来た信仰が、更に新しい世代、新しい人にも信仰が受け継がれて、成長、発展して行くようにと、お祈りしましょう。
また、このサンデイエゴ北部に住む私たちの地域の人々も、私たちの罪の贖いのため、十字架上で死に、三日目に蘇られたイエス・キリストを、主と仰いで信仰へと導かれますようにお祈りしましょう。また、私たちが、家族の未信者の人々にも、イエス・キリストの福音を知らせて行けますように、みことばを聴く者となり、みことばを宣べ伝え、語る者へと導かれて行きますようにと、お祈りしましょう。
ところで、私は、ビデオ・テープで、「新選組」という大河ドラマを見ながら、それを聖書に照らし合わせたりしています。その「新選組」は、江戸幕府の末期に、幕府が機能せず、外国からの圧力によって、鎖国時代から開国時代に入る頃のドラマです。その頃、ある侍は、天皇に付き、ある侍は幕府に付くというような派閥争いの時代であり、「新選組」は、幕府への古い忠誠心を捨てて脱藩し、「新選組」という新しい組合を作ったのです。その「新選組」は、当時は京都の壬生(みぶ)に本拠を置き、「壬生浪士組」という名前でした。そして、その組合には、近藤勇と芹沢鴨という2人のあたまがおり、互いにギクシャクしており、その対立が、「新選組」という大河ドラマとして描かれているのです。その芹沢鴨は、近藤勇をかしらとする相手方を対抗馬として挑むのですが、近藤勇は、それを相手にはしないということでした。しかし、その2人の間には、ギクシャクした空気が流れていたのです。
聖書を読むと、そのようにギクシャクした空気が読み取れる箇所が沢山あり、創世記の28章から36章までの間に記される、ヤコブ中心の章の中でも、ヤコブの兄、エサウの存在も記され、おじのラバンの存在も記されています。それは時代劇のようなものではなく、大河ドラマのように、ギクシャクした空気の流れを、読み取ることが出来ます。私たちが、通り行く人々を観察する時、ドラマで描かれるような人を見ているように思うこともあるでしょう。「新選組」のドラマでも、芹沢は、自信をもったプライドで、人を傷つけ、人からうとまれ、人に信じられず、破滅に追いやられるというのに対して、近藤は、人から敬われるようになって行くのです。聖書を読みますと、芹沢鴨は、エサウのようであり、近藤勇は、ヤコブのようでもあります。芹沢は、近藤を嫉妬し、近藤が祝福されるとうとましく思い、困らせ、騒動を起こすのです。
ここで、「創世記28章6-9節」を、エサウに着眼して、もう一度読んでみましょう。エサウは、弟のヤコブが、両親の言うことに聞き従って、母の身内であった兄、ラバンが住むアラムへ行って、妻をめとるようにと、大いに祝福されたことに気付き、父は、ヤコブをえこひいきしているように思ったのでしょう。また、エサウが既に妻とした2人のヘテ人の女は、父イサクの気に入らないことにも気付きました。そこで、自分も、父の身内であったイシュマエル(アブラハムの妻、サラのそばめで、エジプトの女ハガルとアブラハムとの間に生まれた長男で、父エサウの兄)の娘、マハラテを三人目の妻としたのです。その結婚は、ヤコブに対抗して、父の身内の女と結婚し、父から祝福され、愛されたいという願望があったようにも思われます。しかし、エサウに愛があって、マハラテを妻としたのではなかったようです。エサウは、弟ヤコブに対するやきもちによる安易な結婚であったようにも思われます。また、エサウはマハラテと結婚することによって、弟のヤコブに見せつけると共に、父イサクも悩ませるためであったようにも思われます。
このように、ヤコブは、両親に祈られて、父方の親戚のイシュマエルの所ではなく、神からの示しを受けて、母方の親戚のラバンの所に行き、結婚へと導かれるのです。一方、エサウは、そのヤコブをねたましく思い、霊的なものは何もなく、ただ、自分勝手な感情で、刹那的な結婚を考えてしまっているのです。このように違った原点をもつヤコブとエサウとの間には、子孫に至る迄、分裂が起こり、ヤコブの子孫は、神に祝福され、エサウの子孫は、神からの祝福を受けることが出来なかったのです。
エサウの父イサクは、ヤコブだけを愛したのではありません。イサクは、ヤコブを家から離し、エサウとの時間をもっと作って行こうとし、エサウを家から追い出すということはせず、愛を注いで行ったでしょう。しかし、エサウは錯覚して、自分は父から愛されず、祝福は期待出来ないと勘違いをしていたのでしょう。そして、エジプト生まれの三番目の妻、マハラテからの影響を受け、エジプトの神々の影響も受けて、そのような偶像の神々からの祝福を受けようとしたでしょう。また、その前に、2人のヘテ人を妻としたエサウは、ヘテ人の偶像も取り入れたことでしょう。
このようなエサウの姿に、私たちの姿を乗せてみましょう。「私たちが、エサウのように、神の愛を跳ね除けているようなことはないでしょうか?」、「父と母が心配して、神の愛を示して、警告してくださる時、エサウのように、それを被害妄想的に受け止めてはいないでしょうか?」、「私たちの夢や礼拝の中で、悪い習慣を止めるように示された時、直ぐに決断して、その悪習慣を断ち切ことができるでしょうか?」、「私たちの考え方や態度が、神の愛から外れてはいないでしょうか?」、「神のことばが示されても、自分のプライドで覆い隠されることはないでしょうか?」、「アダムより受け継いだ罪の性質によって、神よりも優先しているものを持ち、感情的に、自分に嫌気がさし、神をうとましく思い、否定的になる」などということはないでしょうか?」もし、自分の姿が、エサウの姿に重なるなら、それを「ごめんなさい」と言って、悔い改めることに、気が付くように、神の導きをいただきましょう。
父イサクが、未婚のヤコブの将来を思いやった時、エサウは、父からの愛が示されないと思って、両親に反対されても、マハラテと結婚したのでしょう。エサウは、両親の言うことを、従順に従うヤコブを、ねたましく思ったのでしょう。私たちも、喜ぶものと共に喜べない自分があるなら、神に祈って、共に喜べる者にしていただきましょう。「ヤコブの手紙3章16節」に、「ねたみと党派心のあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。」と記されているように、「創世記27章41節」には、「エサウは、父から祝福された弟ヤコブを恨んで、殺そうとした」ということが記されています。エサウのこのような殺意は、その時から始まって、次第に膨れ上がっていったようです。
弟ヤコブは、エサウに殺されそうになったのを恐れて、父イサクの家を出ますが、その後、エサウも、ゲラルにあったイサクの家を出て、その南東、死海の更に南東地方のエドムに移り住んだのです。エサウは、赤いものが好きで、赤い肉を好んだように、赤い土地と呼ばれたエドムが好きで、その地に移住したのでしょう。そして、ヤコブが家を出てから20年が過ぎた頃、「創世記32章、33章」に記されているように、ヤコブは、エサウと20年ぶりで再会するようになるのです。その時のエサウは、ヤコブをそんなにねたましげに見るというものではありませんでした。しかし、エサウの持っていた人をねたむという霊が、子々孫々に受け継がれていったのです。「創世記36章」には、エサウの子孫の系図が記されていますが、エサウの孫息子のアマレク(創世記36章12節)は、エサウの息子のエリファズと、そばめのテイムナとの間に生まれた息子です。恐らく、アマレクは、エリファズの正妻との間に生まれた5人の兄弟たちから、苛められ、なぶられて育ったのでしょう。そして、そのようなアマレクとその子孫は、ヤコブとその子孫であるイスラエルの民に対して、最もねたむ民となったのです。
モーセが、400年のエジプト奴隷生活から解放されたイスラエルの民を、約束の地に向けて、シオンの方に導いて行こうとした時に、その行く手を遮断したのが、アマレク人でした。イスラエルの民が、そのようなアマレク人との戦いで、モーセが手を上げていた時には勝利し、またその手を下げると敗戦となったのでした、また、ペルシャ帝国による統治の時代に、パレスチナ地方から追い出されても信仰を守るユダヤ人であった、モデルカイを殺そうとしたハマンも、アマレク人でした。また、サウル王が、イスラエルの民のために王国を建て上げようとした時にも、アマレク人に戦いを仕掛けられました。ダビテ王もアマレク人と戦ったのです。
私たちは、このような、人をねたむという悪霊にとりつかれないようにと、いつも心掛け、エサウのように、自分がねたみの悪霊にとりつかれても、悔い改めることがなかったということを、反面教師として学びましょう。そして、「ヤコブの手紙4章1-10節」を読んで、瞑想してみましょう。何が喧嘩や争い、戦争を起こすのでしょうか?私たちは、イエス・キリストにある兄弟として、悔い改めるところを悔い改め、罪を洗い流し、イエスさまにきよめていただきましょう。そして、神に従い、悪魔に立ち向かえば、悪魔は私たちから逃げて行きます。神に近づきましょう。そうすれば、神は、近づいてくださいます。主の前にへりくだりましょう。そうすれば、主は、私たちを高くしてくださるということを、しっかりと心に刻みましょう。
ヤコブは、父の家を出て、おじのラバンのところに移り住み、最初はヤコブに親切であったラバンが、20年も過ぎる頃には、ヤコブに意地悪をし、苦しめ、カナンの地に行ってからは、飢饉が起こり、食料危機となり、エジプトに売られた息子のヨセフは死んだと告げられて悲しみ、また旱魃がきて何も食べるものがないという状態になったので、約束の地を離れ、エジプトに行き、そこで息を引き取るというような、艱難に遭う苦しみを受けました。しかし、そのような苦しみや悲しみに出遭っても、イサクの信仰がヤコブに継承されて行き、ヤコブの子々孫々に亘って、神の祝福が与えられて行ったのです。一方、エサウは、エドムに移住し、表面的には平安であったようで、子々孫々に亘って、表面的にはたくましく生きて行ったようです。しかし、本来は、エサウが、父イサクからの信仰を継承するという立場にありながら、それを軽視したために、神の祝福は与えられませんでした。私たちは、いつも、へりくだって、神を仰ぎ、神の愛をいただき、罪の心が示された時には、直ちに悔い改めて、神に立ち返り、みことばに聞き従って、日々、信仰の歩みを続け、救いの完成を目指して進んで行きましょう。
10月24日(日)聖日礼拝では、山口光師は、「創世記31章1-13節」を中心聖句とし、「パダン・アラムでの20年」と題して、次のようなメッセージをくださいました:
今日は、詩篇35篇を、皆で交読しました。主イエス・キリストは、「祈り」の模範として、「主の祈り」を示してくださいましたが、詩篇の中には、旧約聖書時代から培われた「祈り」が示されています。その詩篇を声を出して音読する時、神の前に立って、祈り、悔い改め、信仰を表明し、神を賛美することが出来るのです。
次は、報告になりますが、去る10月21日木曜日、イターナル・ヒルズ墓地チャペルで、ダニエル・ロイ・シャノンさんの葬儀が持たれました。雨上がりのすっきりした空の下で、埋葬式も守られました。その葬儀の前に、コネチカットから来られたシャノンさんの弟、トムさんご夫婦にもお会いして、葬儀の式次第などを話し合いました。亡くなられたダニエルさんは、アイルランド生まれで、「ダニー・ボーイ」というアイルランドの歌が好きであったということで、そのメロデイには、ラブソングのような歌詞がついていました。しかし、そのメロデイに合わせた賛美歌もあったので、それを会衆が、英語または日本語で歌うということを、トムさんご夫妻に提案しました。しかし、トムさんは、オリジナルな歌詞で歌いたいということで、意見が一致しませんでした。そこで、その葬儀では、「故人を偲んで」の話しの後、「ダニー・ボーイ」のメロデイだけを、オルガンで演奏し、「アモス書4章12-13節」の朗読に続き、司会者(山口光師)からの「勧話」の後、最後には、「Amazing Grace (おどろくばかりの)」を会衆一同が歌うということで、お互いに了解し合うことができ、神をほめたたえ、福音が伝えられる式となりました。その葬儀の後、トムさんご夫妻にお会いした時、トムさんは、「葬儀の中で神の臨在を覚えた」と、目を潤ませ、トムさんの奥さん、ジュデイさんも、葬儀の最後に「Amazing Grace」を歌って、胸にグッと来たと言われ、また、「このような葬儀は初めてでした」と感謝していました。これは、まさに、神は祈りに応えてくださるということで、神のみわざに感謝します。これからは、残されて一人とされるシャノン竹子さんのためにお祈りして行きましょう。また、次の日曜日、10月31日は、英語礼拝です。この時を月一度の家族伝道の場とし、家族と共に礼拝に出席しましょう。
さて、今年の私たちの教会標語は、「みんなでファミリー・チャーチをつくろう」です。「創世記」には、信仰をもって救いに選ばれた一人の人を親に持つと、その周りが祝福されて行くということが、色濃く表現されていますので、今年は、「創世記」を追ってメッセージをして来ています。例えば、ノアは、雨も降りそうではない地で、大洪水があることを伝え、箱舟を建設するのですが、その間、その土地の者たちに侮られても、ノアは、家族と共に、箱舟を建設し、福音が伝えられていったのです。今日の聖書箇所も含め、「創世記」の内容には、あまりにも人間くさいので、信仰的にどのように理解したらよいかと、戸惑うこともあるのです。でも、そのような旧約聖書を、新約聖書という光に照らして、新しい光で、読み直してみると、その内容の真髄が示されます。例えば、「ヘブル人への手紙11章」には、そのような真髄が特筆されています。
本日の聖書箇所は、「創世記28-31章」の集約箇所であり、ヤコブが、母レベカの兄(アブラハムの兄弟のナホルの息子で、アブラハムのおいに当たるラバン)の家族たちが住んでいた「パダン・アラム」に20年を過ごしたことが記されています。この20年間の出来事は、一言では言えない事が沢山あります。でもそれは、不信仰の物語かというと、そうではありません。確かに、霊的なズレがないとはいえませんが、目に見えないところを手探りで読み、また、新約聖書の光を当てて読んでみましょう、今日は、「創世記31章1-13節」を中心として、「家族伝道」、「罪の情景」、「神の無条件の愛」という大切な3っの視点に絞ってお話しします:
「家族伝道」: ヤコブは、「パダン・アラム」で20年を過ごしますが、その地は、ヤコブの生まれた故郷ではありませんでした。確かに、ヤコブの先祖にとっては「パダン・アラム」は、故郷でしたが、ヤコブの祖父であったアブラハムは、生まれ故郷のウルを出て、パダン・アラム(ハラン)を経て、カナンの地に移住し、移民一世となり、ヤコブは、その移住三世でした。そして、ヤコブは、母の故郷、パダン・アラムにいる母の兄であったラバンの家族たちの所に送り出されて、20年が過ぎたのです。これは、救われたヤコブに委ねられた家族伝道のようなものでした。「マルコによる福音書4章35節」には、「さあ、向こう岸へ渡ろう。」と、イエスさまが弟子たちに呼びかけたことが記されています。そして、イエスさまは、その向こう岸の墓場に住む精神異常者を救った後、彼を故郷に帰し、家族伝道、故郷伝道へと導いたのです(マルコによる福音書5章19-20節)。また、イエスさまは、四人に担がれてイエスさまのもとに、屋根から降ろされた中風の人を癒され、自分の家に帰りなさいといわれたのです(マルコによる福音書2章1-12節)。ヤコブも、父イサクと母リベカによって、母リベカの兄、ラバンが住む「パダン・アラム」という地域に派遣されることになるのです。でも、その地は、ヤコブの信仰とは違い、アブラハムの兄弟、ナホルが拝んだ神々や、ラバンが持っていたテラヒムなどという偶像を礼拝するような人たちでした。ヤコブが、そのパダン・アラムに向けて、ベール・シェバを立ち、ベテルに行った時、神に出会い、「見よ、わたしはあなととともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28章15節)と約束されたのです。この神の約束によって、ヤコブが、パダン・アラムに派遣されるのは、単に、花嫁探しのようなことではなく、もっと深いことであり、20年間、信仰を失わず、親戚に証しして行くようにという、信仰的な励ましが与えられたのでしょう。そして、ヤコブは、その神の約束を聞いて、自分が遣わされたのは、母の兄の家族たちの救いのためであることも示されたことでしょう。私たちも神の御旨をくみとって、家族の中に入って、福音を伝えて行きましょう。
「罪の情景」: 神は、人が罪を犯したら、その人の子孫に、その罪を残すのです。人類の先祖であるアダムとイブは罪を犯したので、男は労働に苦しみを与えられ、女も出産の苦しみを与えられたのです。「創世記30章」にも、男の罪によって通る苦しみ、女の罪によって通る苦しみが記されています。聖書を読みながら、アブラハムもイサクも偉大な信仰者と過大評価してはいませんか。またヤコブは敬虔な人物であると過大評価してはいませんか。聖書には、愚かな人間で、救われるに値しない人物でも、悔い改めて、救われる魂が与えられることが記されているのです。ヤコブも、パダン・アラムの地で、さ迷う羊のような20年の歩みの中で、レアとラケルという2人の妻を娶り、また、2人の妻のそれぞれもそばめ2人とも結婚し、子作り熱心になりました。また、人とのやりとりも熱心になり、女性たちも、感情のゆれがあり、出産の苦しみもあり、男性たちも、労働の苦しみを通り、また、最後の6年間におけるヤコブとラバンとの間の財産争いもあり、また、金とか名誉欲ではない内側の乱れもあったのです。それらは、アダムとイブが犯した人間の罪のあらわれです。「ローマ人への手紙3章23-24節」には、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」と記されています。ヤコブも、20年間、神の恵みで信仰を貫き、最初の7年間はラバンに仕えて仕事に励み、次の7年間では、ラバンの2人の娘のレアとラバンとの結婚、そしてレアのそばめ、ジルハとラケルのそばめ、ビルハとの結婚を通して、11名の息子と1人の娘(デイナ)が与えられました。それらの子供たちは、偶像礼拝者にならなず、信仰が守られたのは、神の恵みです。私たちも、キリストの血潮による贖いによって、子孫にも信仰が守られることを覚えましょう。
「神の無条件の愛」: ヤコブやその2人の妻、レアもラケルも、また、ヤコブのおじのラバンも、それぞれ、神の前に立って、悔い改めるべき要素をもっていました。ヤコブはおじのように、偶像の神々を拝むような罪はありませんでした。しかし、ヤコブは、人との関係での罪を覚え、まことの神に悔い改め、神からの一方的な恩寵をうけたのです。そして、ヤコブは、自分には子育てが出来ないことを自覚し、不器用で、愚かな自分であると見ていましたが、死ぬまで、家族の者たちに慕われていました。また、ヤコブの息子たちは、神から離れませんでした。そして、ヤコブは、死ぬ前に、12人の息子ら(ヤコブが、パダン・アラムにいるときに生まれた11名の息子と、ヤコブがパダン・アラムからベテルに帰った後、ラケルから生まれたベニヤミンを加えて12人)を呼び寄せて、その息子らを祝福しました(創世記49章)。また、ヤコブは、ヨセフの息子のエフライムとマナセにも祝福しました(創世記48章)。そのことは、「ヘブル人への手紙11章21節」にも、「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し」と記されています。これらのヤコブの子どのたちや孫たちは、神に選ばれた者の子孫であったのですが、罪の子として生まれたのです。しかし、神は、その者たちを、孤児とはしませんでした。ヤコブの息子らは、神に見捨てられることはなく、それぞれ12部族の長となりました。ヤコブは、罪の子らが、神の子に変えられて行くように熱望していたのです。「エレミヤ書31章15-17節、20節」を読んでみましょう。そこには、「労苦には報いがあり、悲しみにおぼれることがないように、また、望みがあるように、神は、あわれみをもって、愛してくださっておられる」ということが示されています。赤子が悪いことをしても、親はその赤子を愛しぬくように、神は私たちを愛してくださており、導いてくださていることを、しっかりと心に留めましょう。そして、かたくなな心を砕いて、イエスさまに介入していただき、きよめていただき、導いていただきましょう。
10月31日(日)聖日礼拝では、マックルアー・マーク先生が、「マタイによる福音書3章1-12節」を中心聖句とし、「道をそなえよ」と題して、英語でメッセージをしてくださいました。
私の家は、米軍基地のキャンプ・ペンデルトンの北にあり、その練習場からのマシンガンなどの音が聞こえ、夜にはヘリコプターが、大きな音を立てて、屋根の上近くを飛び去って行くこともあり、喧しいことが多いのです。私のような平和主義者の家が、米軍基地の近くにあるように、バプテスマのヨハネも、イエスさまも、羊の多い田舎育ちでしたが、当時その地まで侵略して来たローマ軍に支配されているという不安定な時代に住んでいました。でも、そのヨハネは、「イエスさまこそが、永遠の御国、神の御国の王で、王の王として、その地上に来られて、人々の魂を建て直すお方である」ということを示されたのです。
「マタイによる福音書8章5-13節」には、百人隊長が、しもべの癒しを求めてイエスさまに、信仰をもって懇願し、イエスさまが何も言われぬ前に、そのしもべは、福音の恵みによって癒されたことが記されています。そのように、信仰を持てば、福音は全ての者に開かれており、どんな仕事の人にでも開かれているのです。当時、バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒野で、「悔い改めなさい。天の御國が近づいたから。」という教えを、宣べ伝えて行ったのです(マタイによる福音書3章2節)。
当時、イスラエルは、ローマの支配下にありました。現在、米国は、嘗てのローマ軍のように、世界の890ヶ所に基地をもち、イラクにも一時的に、12の基地を持っています。現在、戦争は激化し、膨れ上がっているのでしょうか?「マタイによる福音書10章34-39節」には、「自分を捨てて、イエス・キリストを受け入れ、聴き従い、ついて行くという信仰生活が大切である」ということが示されています。また、「ルカによる福音書14章31-34節」には、「自分の持っているすべてのものを、平和の王として来られた、イエスさまに明け渡さなければ、主イエス・キリストの弟子とはなれない」ということも示されています。
このように、自己中心的なエゴとかプライドを捨て、へりくだって、イエス・キリストに従って行く時に、平和を築いて行く神の子とされるのです。そして、敵を愛し、右の頬を打たれたら、左の頬を出し、1マイルを行けと言われたら2マイルを行くようになるのです。「エペソ人への手紙1章9-10節」には、キリストにあって、皆が一つに集められることが示されています。また、「エペソ人への手紙2章14-18節」には、「キリストによって、ユダヤ人と異邦人とが一つとなり、神と和解して平和が実現される」と示されています。キリストに従う者は、平和をつくる者であり、敵を愛し、福音を宣べ伝えて行くように、神は、一人一人を招いておられるのです。イエス・キリストを主と仰ぎ、信じる信者は、よみがえりを経験して、新生した者です。そのような信者、クリスチャンはすべて、御国の王であるキリストに仕える者であると共に、御国の兵でもあることを覚え、「エペソ人への手紙6章10-20節」に示されるように、神の武具をしっかりとつけて立ち、霊的な戦いに勝利して行きましょう。
===この後、2-3人ずつのスモール・グループに分かれ、それぞれのスモール・グループ毎に、「エペソ人への手紙6章10-20節」を輪読し、「この聖書箇所に出て来る全ての”動詞”を拾い上げ、神様は、神様の子とされた者たちに、何を求めているかを、グループ内で考える」という、約10分間の分かち合いの時を持ちました。その後、皆が、また席に戻り、マーク先生から、次のようなまとめのメッセージを戴きました。===
「エペソ人への手紙6章10-20節」に示されるように、私たちは、「このような力強い神のみことばに従って、直ちに行動を起こし、力強く福音を宣べ伝えて行きましょう。」この手紙を書いたパウロが、その良い模範です。パウロは、鎖に繋がれながらも、すべてをキリストに捧げて、大胆に福音を宣べ伝えて行ったのです。旧約聖書時代では、イスラエルの民は、神に背いたために、約400年間に亘る奴隷生活を送るようになったのですが、その後に解放されて自由となるのです。イエスさまは、兵士をけなしたり、奴隷を悪くは言われず、表面的な社会改革をされたのではなく、人々の心の改革をされたのです。その心の改革とは、主イエス・キリストを信じる者が、劇的に変化し、新しく生まれ変わることなのです。即ち、キリストを信じ、キリストに聴き従う信仰によって、永遠の死から解放されて、永遠の命が与えられ、永遠の御国に入って、主イエス・キリストの御前に導かれ、旧約聖書の律法が完成されるということです。このように、私たちが、心から信じるなら、地上でも神の子とされ、自分の肉体は滅んでも、自分の霊は永遠の御国への旅が始まるのです。イエスさまは、私たち一人一人を招き、そのように永遠の御国へと招き入れたいのです。私たちは、自分たちの言葉や行動を通して、福音を人々に告げ知らせて、その人々が、キリストを信じて救われ、祝福されるように励みましょう。
今週の火曜日は、米国大統領選挙が行われます。この選挙によって、霊的な改革がなされることが大事なのです。この選挙によって、米国の社会構造を一変させるということではなく、心を一変させて、自分の全存在をイエス・キリストに向け、イエス・キリストが、自分の目に麗しいというようになって行くことが大事なのです。私たちのきよき1票を、イエス・キリストにある平安と平和のために投票しましょう。私たちは、イエス・キリストを犠牲にして十字架に架けた罪あるものですが、この世の争いから救われるよう、神様からの霊と知恵を注いで戴き、私たちが、イエス・キリストの愛と恵みを証しして行けるように、祈りましょう。
同日、続いて、聖餐式も持たれました。
光岡恭平通信員