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2004年3月

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行事報告

·         200437日(日)は、家族での聖日礼拝の日で、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクール教師のリチャード・ハイデイ姉と子供ら6人も、共に礼拝堂に集り、ハイデイ姉は、その子供らに、次のように話しました:

1.       「この中でクリスチャンは誰ですか?手を上げてください!」と問いかけ、手を上げたクリスチャンに、「では、クリスチャンになってから、何も困難がありませんでしたか?」と質問しました。その質問に答えて、「体の痛むことがありました。」、「学校の友達から嫌われ、共に祈ることも拒否されたことがありました。」などという答えを引き出しました。また、ハイデイ姉ご自身についても、「私の夫、トムが働けなくなり、収入がなくなり、子供に誕生日のギフトを上げることもできないでいます。」と、証しされました。

2.       次に、サンド・ペーパー(紙やすり)を見せ、また、小さな木片も見せながら、「この木片の表面は、ざさざらしていますが、その表面を、この紙やすりで擦ると、滑らかになります。」と話しながら、そのように実演し、その木片から削り落とされた木屑の粉も落として見せ、次のように話しを続けました:

3.       「私たちが、クリスチャンであっても、罪深く、完全にきよい人間ではありません。そして、クリスチャンが、困難に直面するということは、神からの試練が与えられたということです。神は、そのような試練を通して、私たちを、きれいに形作ってくださり、成長させてくださるのです。丁度、ギターを作るとき、先ず、そのギターを作る木の表面をよく磨いて、ピカピカにし、美しい音楽を奏でることができるようにするようなものです。」

4.       「コリント人への手紙 第一1013節」に示されるように、神は、私たちクリスチャンを成長させるために、私たちに試練を与えますが、それは、耐えられない困難ではなく、脱出の道も備えた試練です。ですから、「ヤコブの手紙124節」にも記されているように、試練に会うことはこの上もない喜びであり、それによって忍耐が生まれて成長して行くのです。私たちは、神を仰ぎ、試練によって磨かれて、成長して行き、神の祝福をいただきましょう。

·         同日(日)、引き続き、山口光師は、「創世記6章」から、「終末に生きた男 − ノア」と題し、次のようなメッセージをされました:

1.       3月に入り、いのちの躍動感を覚える時、創造主であられる神に目を向け、イエス・キリストご自身であるみことばを心に留めて行きましょう。今日のキッズ・タイムでのお話しによって、子供と共に大人の私たちも学ぶことができました。荒削りの不完全な私たちも、荒削りの十字架を背負ったイエス・キリストの姿にきよめられ、磨かれて滑らかになり、成長して行き、今の時代にあって、終末の時代も見て行きましょう。

2.       「創世記6章」には、アダムから10代目のノアの時代にあった終末が記されており、その終末は、地球規模の大洪水による、古い天と古い地の終末であり、今の時代の終末ではありません。「マタイによる福音書24章」には、今の時代の終末には、いろいろな前兆があると警告されており、その終末前には、御国の福音が全世界に宣べ伝えられることも記されています。また、「黙示録2114節」には、イエス・キリストを受け入れた者には、新しい天と新しい地が開けて、涙も悲しみもなくなることが示されています。今の時代の終末も、ノアの終末時代にあった大洪水のように、突然やってきて、神は、裁きの座に就くのです。そして、主の前に心を供えているかどうかが問われ、ノアの時代のように、「光の中を歩んで天国に行く者」と「闇の中を歩いて地獄に行く者」というような明暗に分かれます。私たちが、平穏無事を願う以上に、自分の欲望に溺れて、神を捨てて行けば、次第に闇の世界に入って行くのです。今は、レント期間中です。神でありながら、この世に生を受けて人となられ、人類の罪の贖いのために、身代わりとなって、死んでくださったイエス・キリストを覚え、心に留めて行きましょう。

3.       神を捨てた世界の中でも、ノアは神に信頼し、人に嘲られても、信仰を貫き通しました。例えば、ノアの曽祖父のエノクが天に携挙されたことを、人に伝えても、軽蔑され、受け入れられなかったでしょう。当時は、ネフリム(巨人とか、堕落した者という意味を持つ)を崇拝し、神から離れた娘たちが多く、性の快楽を求めていました(創世記64節)。今も、権力争いによる覇者をネフリムの様に英雄として崇拝し、偽預言者も出るという時代で、売春や援助交際が行われています。ノアの時代にも、悪が増大し、道徳心は消え失せて行き、神は心を痛めました(創世記656節)。そのような悪の時代にあっても、ノアは、神の存在を信じ、神を仰ぎ、神の心にかなう、正しい、全き人で、神と共に歩んだことが、「創世記689節」に記されています。アダムの信仰は、セツやエノクにに継承され、ノアの父であるレメクにも受け継がれて、レメクからノアにも信仰が継承されたわけです。ノアの父、レメクは、ノアの600歳の時に起こった大洪水の約5年前に死んでいるようです。その他、ノアの時代に生きていたノアの親戚の者には、信仰が継承されていなかったようです。

4.       神は、神の前に堕落し、暴虐で満ちていた地上を大洪水で滅ぼそうとされました(創世記61112節)。しかし、神は、その前に、ノアと契約を結び、ノアの信仰を自分たちの信仰とした、ノアの妻と、その3人の息子夫婦とノアを含めて8名は、ノアが、神に命じられた通りにつくる箱舟に入ることと、また、すべての生き物の雄と雌の二匹ずつもその箱舟に入れるということも、ノアに命じました。この契約に、ノアの親戚や友人は含まれていません。一方、「創世記4章」から、カインの系図を見ると、7代目で終わりになっていますが、それは、ノアの時代の大洪水でカインの子孫が絶滅したことを示しています。しかし、ノアの家族8名は、信仰によって、神に守られたのです(創世記622節)。

5.       イエス・キリストの弟子であり、エルサレム教会の牧師であったペテロは、「ペテロの手紙 第二359節」に、これからの終末について記しており、ノアの時代には、神のみことばによって成った古い天と古い地が、大洪水で滅んだように、これからの終末にも、神のみことばによって、火による裁きが行われ、今の天と今の地が滅びるのですが、神は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。私たちは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝1631節)という今年の教会標語を掲げて歩み、主イエス・キリストを慕い奉り、悪い習慣があるならば、それから離れて行きましょう。

·         314日(日)聖日礼拝では、まず、「音楽のささげもの」として、サンデー・スクールの6名の子供たちが、マックレラ・マーク先生のギター演奏にあわせて、「Zero to Hero」という英語の歌を高らかに歌い上げました。その前に、マックレラ・恵夫人は、その歌の内容を解説し、「ダビテ王が小さかった時、小さいので馬鹿にされていましたが、素晴らしい神の導きによって、巨人のゴリアテを倒しました。このように、小さい者も、神様は、大きく用いてくださるという歌です。」と知らせてくださいました。続いて、山口光師は、「創世記7章」を中心として、「終末にあるよみがえり」と題して、次のようなメッセージをされました:

1.       「創世記7章」に記されている「地球規模の大洪水による環境異変」は、寓話ではなく、貴重な記録であり、歴史的事実であり、科学的証明もされております。恐竜が破滅したのは、その洪水によるものであり、メキシコに落ちた隕石のようなものではないことも、科学的に証明されています。聖書には、神のことばによる正しい歴史的事実が記されているのです。この聖書を通して、「神は何を示し、何を人間に求めているのか」ということを知ることが大切です。

2.       神は、エデンの園で、共に語り合える友として、神のイメージに似せて人を形造り、その体にいのちの息を吹き込み、アダムが生まれ、喜びの世界に加えられました。しかし、アダムはエバと共におろかなことをしてしまい、神との関係が断ち切られました。でも、ある時、そのその2人が悔い改めて神に立ち返ることができ、その信仰が10代目のノアにも受け継がれて行ったのです。神は、一人一人にいのちの息を吹き込まれ、生まれさせ、成長させてゆくと共に、神の御子イエス・キリストのいのちにかけて、人を罪から生かし、とこしえに生きるようにと願っておられるのです。ところが、ノアの時代になると、ノアとその家族の合計8名を除くすべての人々は、神から離れてしまい、悔い改めて神に立ち返るということもなく、神の裁きによる大洪水で滅亡し、ノアの家族8名だけが、神を信じ、神のみことばに聞き従って、箱舟をつくり、その箱舟に入り、その大洪水による絶滅から救われたのです。今日は、そのノアとその家族の「よみがえり」に焦点をおいて考えてみましょう。

3.       ノアの600歳の217日から717日までの150日間にわたって、地球規模の大洪水という神の裁きがなされましたが、その大洪水の始まる前の7日間で、ノアとその家族や、きよい動物や空飛ぶ鳥の雄と雌の7つがいずつと、きよくない動物の雄と雌の1つがいずつが、神から命じられた設計によって作られたノアの箱舟に乗り込むことを完了しました。そして、その後に大洪水が150日間続いてから、717日に、その箱舟は、アララテの山の上にとどまったことが、「創世記84節」に記されています。ノアの家族にとって、その箱舟生活は、仮住まいであり、その717日に、ノアの目に映った世界は、正に新天新地の世界であり、古い世界は、泥の中に埋もれてしまったのです。(なお、その717日は、出エジプト前のユダヤ民間暦の「ニサン」の月の17日です。それから約900年後のモーセの時代に、エジプトを脱出して、奴隷生活から解放されたイスラエルの民は、そのエジプトを脱出できた月を正月としました(出エジプト記12章)。その正月が、「ニサン」の月であったのです。)

4.       モーセの時代に、エジプトを脱出して自由になったイスラエルの民は、40年間、荒野での生活をしながら、神の約束された地、カナンを目指して歩んで行きますが、それは、テント生活で、地上での寄留者としての生活でした。同様に、クリスチャンも、地上では、寄留者としての生活であり、約束のいのちを手に入れることを信じて進んだ多くの信仰者(ヘブル人への手紙11章)と同じです。ここで、昨日、313日に天に召されたスナイダー初子姉妹のことを覚えます。彼女は、主によって約束されたものをもって、死を恐れず、安らかに息を引き取られたのです。教会も、神が備えてくださったノアの箱舟のようなものです。神は、一人一人の名前を呼んで、救いの箱舟である教会に導き、約束の地に入るように執り成してくださっているのです。ノアにとっても、約束の地は、アララテの山でした。

5.       「ニサン」の月の14日は、過越しの祭りの始まる日です。エジプトにいたイスラエルの民は、モーセを通して神に命じられたように、「ニサン」の月の14日晩に、子羊をほふり、その血を二本の鴨居に塗ることによって、主がイスラエルの初い子を打たれずに過ぎ越して行かれ、そのようなことをしなかったエジプト人の初い子は主に打たれ、それによって、イスラエルの民が、エジプトの奴隷生活から解放されたことを覚えて、記念とする日の始まりです。そのような過越しの祭りの始まった「ニサン」の月の14日晩に、イエス・キリストは十字架につけられ、イエスさまは、その十字架上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカによる福音書2334節)といわれ、死んで葬られ、3日目の「ニサン」の月の17日(民間暦で717日)に、復活されたのです。ノアが600歳であった時代に、ノアとその家族合計8名が、地球規模の大洪水という神の裁きから免れ、アララテの山にとどまった日は、「ニサン」の月の17日で、正に、イエス・キリストの復活の日と、ピタリと一致しているのです。ユダ王国のヒゼキヤ王が、王となって始めて神の宮に入ったのも、「ニサン」の月の17日であったことが記されています(歴代誌 第二31章)。

6.       神に命じられた通りに、ノアの家族とすべての肉なるものの雄と雌とが、ノアの箱舟に入ったら、神ご自身が、そのうしろの戸を閉ざされたことが、「創世記716節」に記されています。箱舟である教会も、いつの日にか、主によって閉じられる時が来るのです。それまでに、私たちは、福音を全世界の人々に宣べ伝えて行きましょう。「ヘブル人への手紙117節」には、「ノアは、信仰による義を相続する者となりました。」と記されています。また、「ヨハネによる福音書640節」には、「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」と示しています。私たちも、家族や友人に、「イエス・キリストを信じれば恵によって義とされ、救われ、永遠のいのちが与えられる」という福音を伝え、箱舟である教会に集めて行きましょう。

·         321日(日)聖日礼拝では、マックルアー・マーク先生が、「ヨハネによる福音書162022節」を中心聖句とし、「痛みと危険。そして希望」と題して、英語でメッセージをしてくださり、それを山口光師が、次のように日本語に通訳されました:

1.       家内の恵は、3人の息子の出産し、その出産には、痛みと苦しみが伴いましたが、生まれた子を抱く母親からは、痛みも取り去られ、朝日に消える朝霞のようでした。イエスさまも、十字架の痛みを受けましたが、その先にある永遠の喜びのゆえに、十字架を忍び、神の右の座に着座されました(ヘブル人への手紙122節)。

2.       エジプトに移住したヘブル人は、多産で強かったため、苦役が課せられ、助産婦はエジプト国王から、「ヘブル人の女に分娩させるとき、男の子が生まれてきたら、それを殺せ」と言われた危険な時代に、モーセは生まれましたが、エジプト王女の息子とされて育ち、やがて、エジプトからヘブル人を救い出す者となる希望がありました。また、イエスさまがベツレヘムで誕生された時にも、同じような危険があり、当時イスラエルを治めるヘロデ王は、本当の神でありユダヤ人の王として生まれた方、イエスさまを恐れ、ベツレヘム近辺の2歳以下の男の子を全部殺せという命令が出されますが、生まれたばかりのイエスさまは、母と共に父ヨセフに連れられてエジプトに逃げて助かったのです。

3.       米国では、1973年から今までに、約5,200万件の堕胎があり、これは1日平均約4,750件の堕胎が行われたことになり、胎児を殺すことが合法化されている時代です。このような時代にあって、私は、家内と共に子供を持つという選択が出来たことを喜び、これからの子育てにおいても、子供らに、神の愛と神のみことばによる行動をもって示して行き、子供らが、きよく成長して行くようにと祈っています。

4.       = = なお、本日は、スモール・グループによる話し合いの時はなく、皆で、「幼な子」に焦点を当てて、周りの子供たちや母親のために祈る時が持たれました。また、その祈りの最初に、マーク先生が、その礼拝後に山口牧師宅で持たれるデービス美佐子姉のベビー・シャワーのために、短い祈りをもって導いた後、1人が代表して祈り、この教会に多くの幼な子が与えられたことを感謝し、神のみ旨のままに、子育てがなされ、その子供たちが、神の愛をいただきながら、互いに愛し合っていくようにという祈りも捧げられました。= =

5.       「詩篇1391316節」に示されるように、「人は母の胎のうちで神によって組み立てられ、神の書物に書き記されている」ということですので、堕胎は、神のみ旨に反することです。また、「申命記285357節」には、「息子や娘の肉を食べる」というような悲惨な記事も記されていますが、その他にもそのような神に反することが、聖書に記されています。私たちは、堕胎した人に後ろ指をさすのではなく、神のさばきは、当の本人になされるので、すべて神にお任せしましょう。

6.       私が、大学生の時、警備員として、夜の仕事をしていましたが、ある時、女の警備員から誘惑を受け、「私の体は神のものであるから、そのような神に反することは出来ない」と断りました。しかし、その後も、その女警備員からの誘惑を断り、三度目に誘惑された時、その女に福音を語ったら、その女は、それまで7回も堕胎したことを告白し、赤子の魂が漂っているようで恐ろしいといって泣いていました。それは、悪魔に包囲され、神への信頼の道が閉ざされた絶望であったのでしょう。今から思うと、自分が、その時その女に、もっと上手に福音を与えたら良かったのだと思わされます。私たちは、堕胎した人のためにも、とりなしの祈りをして行きましょう。私たちは、そのように堕胎を経験した人が、神の愛の深さを知り、やり直しができることを知るように導き、助けて行けるようにと祈り、更に、子が増やされ、その子どもも神の愛を知り、神を信じて行けるようにと祈りましょう。

7.       プリンストン大学のピーター・シンガー先生は、生物倫理学者ですが、その先生が、「出産後28日までの新生児の知性や感情などが、人間のレベルには達しておらず、動物レベルであるので、堕胎したり、殺してもよい」と発表し、また、安楽死も、文化の発展のために必要という本も出版し、それらは、教科書にもなっているというのが、今の時代です。このように、堕胎や幼児殺しや安楽死を正当化するということは、罪であることを覚え、罪人一人一人のために、イエスさまが身代わりになって死んでくださり、復活されたことを覚え、祈りましょう。

8.       ユダヤ民族が、出エジプトの前に、エジプトの赤子は滅ぼされ、ユダヤ人の赤子は生かされて、ユダヤ人はそれによって、奴隷から解放されました。また、イエスさまのご降誕の時には、ヘロデ王の命令によって、2歳以下の男の子が殺されましたが、イエスさまは父母と共に、エジプトに逃げたので、殺されず、それによって、イエス・キリストによる救いのみわざが成就されたのです。今は、赤子が葬られるという時代ですが、赤ちゃんが神に守られ、母子共に健康に恵まれ、生まれた幼な子に神からの知恵が与えられ、健康に成長して行きますようにと祈ります。

9.       = = 以上のようなメッセージの途中で、3名の代表による祈りの時もあり、教会の幼子や青少年の子供たちや家族が、救いの創始者であり完成者であるイエス・キリスト(ヘブル人への手紙122節)と共に歩み、知恵も健康も守られ、祝福されてゆきますようにという祈りも捧げられました。= =

10.   イエスさまは、「神の国は、幼子のようなものたちのものです」(ルカによる福音書1816節)と言われました。どうか、子供一人一人が、イエスさまを救い主として知るように導いてくださるよう、お祈りしましょう。

·         同日、以上のような礼拝メッセ−ジに続き、山口光師の司式によって、聖餐式が持たれましたが、その前に、会衆一同が、「使徒信条」をもって、信仰を告白し、また、「レビ記192節」を参照しながら、「神は聖なるお方であるから、私たちも聖なる者とならなければならない」ということも確認し合いました。また、その礼拝後、山口牧師宅に集まり、デービス美佐子姉が、来る522日に出産を予定している息子、「Andrew 光浩」君のベービイ・シャワーが行われ、お祝いし、喜び合いました。その中で、リチャード・ハイデイ姉が双子のカレブ君とベンジャミン君を出産する前後に、度々、母子共に痛みの時があったが、神に祈って、守られて、素晴らしい出産であったことを証しされました。

·         328日(日)聖日礼拝では、吹上信一師が、「コリント人への手紙 第一15311節」から、「十字架と復活」と題して、次のようにメッセージをされました:

1.       本日の聖書箇所の3節には、パウロが、コリント教会に伝えたいと思う、最も大切なこととして、「聖書の示すとおりに、キリストは、@私たちの罪のために死なれたこと、また、A葬られたこと、また、B聖書に従って三日目によみがえったこと」が含まれています。また、私たちが、信仰告白に用いる「使徒行伝」には、「主イエス・キリストは、@ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、A十字架につけられ、B死にて葬られ、C陰府にくだり、D三日目に死人の内よりよみがえり、E天にのぼり、F全能の父なる神の右に座したまえり。」というように記されています。本日は、その中の「十字架と復活」の2点に絞って話します。

2.       「罪もけがれもないイエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったのです」:
(A)十字架刑は、極悪の殺人や不法の罪を犯した人が課せられる極刑です。キリストは罪もけがれもないお方でしたが、私たちの罪の身代わりの贖罪となって、十字架で死んでくださいました。それによって、神と私たちとの関係が正しいものとされるようになったのです。「ローマ書623節」に示されるように、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 また、「ペテロの手紙 第一22224節」にも、「罪を犯したことのないキリストは、私たちが、義のために生きるため、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、また、キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と記されています。
(B)キリストの受難が映画化された「パッション」では、キリストが十字架に架けられる前に、39回にわたる極限の鞭打ちによって流された多量の血や、十字架に釘付けされたキリストの手足の傷のゆえに、私たちがいやされ、救われたことが示されています。
(C)また、以前、米国のグレゴリーという17歳の青年は、学生フットボールのスターでしたが、ある時、3歳年下の妹が、死に至るような腎臓病にかかり、片方の腎臓移植手術が必要となった時、その青年は、自分の片方の腎臓がなくなっても死なないからいいのだと言って、それを妹の腎臓移植に提供しました。しかし、その後、その青年は、一生、フットボールは出来なくなりました。
(D)しかし、イエス・キリストは、体全部を、全人類の罪を救うために捧げてくださったのです。そこに、神の無条件の愛が示されています。「ヨハネの手紙 第一4911節」には、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって、私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。- - - 神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 - - - 私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と記されています。

3.       「イエス・キリストの復活について」:
(A)フィリップス著の「聖書は私たちを裏切らない」という本には、「ある老牧師が、ある神学者から、確信をもって、キリストは実際にはよみがえったのではないと言われたことに、非常に失望して自殺した」という記事がありますが、その本は、「キリストがよみがえられたことを証明するために書かれた本」です。「コリント人への手紙 第一151319節」にも、「キリストが復活されなかったという人は、偽証人となり、その人の信仰は空虚で、罪の中におり、すべての人の中で一番哀れな者」と記されています。更に、それに続く20節には、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」と示されているのです。
(B)また、「コリント人への手紙 第一155558節」には、「死は勝利にのまれた」ので、「いつも主のわざに励みなさい。」と強調されています。パウロは、以前、キリストの復活を信じていた人でなく、キリストが神であることを否定し、クリスチャンを迫害し、キリスト教を撲滅しようとして、ダマスコに向かう途上で、復活のイエス・キリストい出会って、回心し、キリストの復活を信じる信仰に立って、福音を喜んで伝える者に変えられたのです。
(C)「ペテロの手紙 第一135節」には、「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みをもつようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。- - -」と記されています。キリストの復活を信じる人は幸いです。
(D)イエス・キリストの弟子であったトマスは、復活のキリストが弟子たちに現れた時、そこに居ませんでした。人が、居るべき所にいないと、損失が大きいのです。恐らく、トマスは、キリストが十字架で死んだことに恐怖を覚えて、ペテロなど、キリストの弟子たちとの交わりから逃れていたのであろうという人(キヤンブル・モルガン)もいます。トマスは、弟子たちが復活のキリストに出会ったことを聞きますが、その復活されたキリストの手に釘あとを見、自分の指をその釘あとに差し入れ、また、自分の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じないと言いました。その八日後の日曜日に、トマスが、弟子たちといっしょにいる室内に、復活のイエスが現れ、トマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」と言われました。恐らく、トマスは、その傷跡にさわる必要もなく、「私の主、私の神。」と答え、キリストはトマスに「あなたは、わたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と言われたのです。復活のイエスを見ずに信じる私たちは幸いです。
(E)昔、ソ連の文部大臣が、大衆を前にして、「キリストの十字架も復活も、迷信であり、おとぎ話です。これに意見のある人は申し出なさい。」と言いました。そこで、あるみすぼらしい牧師が立ち上がり、厳かに、「キリストは、実によみがえりたまえり!」と言い、満場の人々も、「キリストは、実によみがえりたまえり!」と同調したので、その大臣も抗することが出来ず、去っていったということです。事実、キリストはよみがって、私たちに、永遠のいのちを与えてくださるのです。
(F)「神は死んだ」という神学者がいますが、復活のキリストを信じ、永遠のいのちを与えてくださる、生ける神を信じ、その信仰生活の歩みが、豊かに祝福されますようにと祈りましょう。

光岡恭平通信員