2004年2月1日(日)は、家族での聖日礼拝の日で、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクール教師のリチャード・ハイデイ姉と子供ら6人も、共に礼拝堂に集り、ハイデイ姉は、その子供らに、「この2月14日は、バレンタイン・デーですね。その日に、あなたがたが、誰かにあげる特別のギフトはありますか?」と問いかけ、一人の子供から、「イエス・キリストを受け入れるというギフトです。」という応答がありました。その答えを受けて、ハイデイ姉は、「そうですね!」と受け止め、更に、「マルコによる福音書16章15節」(全世界に福音を宣べ伝えなさい。)と「ローマ人への手紙10章1−15節」(人は信じて義と認められ、口で告白して救われ、- - - よいことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。)というみことばを参照しながら、皆で、福音の伝道、宣教の働きをしましょうと、更に、次のように励ましました:
イエス・キリストを信じて救われて、クリスチャンとなった1人の人が、ある2人の人に福音を伝えて、その2人の人が救いに導かれて2代目のクリスチャンになり、更に、そのクリスチャンになった1人1人が、それぞれ、2人ずつに伝道して、それぞれがクリスチャンへと導かれれば、この3代目のクリスチャンは4名となり、1代目のクリスチャン1人と、2代目のクリスチャン2名とを合計すれば、全部で、8名のクリスチャンが誕生したことになります。
私は、5歳の時に日曜学校の先生から、福音を聞いてクリスチャンになりましたが、その後、家族や友人に伝道をし、クリスチャンになった人々が、またその家族や友人や隣人に伝道して、それらの人々がクリスチャンになり、今では、全部で22名のクリスチャンのグループとなっています。
1人のクリスチャンが、2人に伝道して、その2人ともクリスチャンに導かれて2代目のクリスチャンとなり、そのようにして次々と1人のクリスチャンが、2人に伝道して、それぞれがクリスチャンに導かれて行けば、7代目のクリスチャンは、全部で128名になり、1代目から7代目までのクリスチャンの合計は、248名になります。(実際に、1人の人を1個のキャンデーとして使って、その数を数えらがら、その数の増大して行くことが、デモンストレーションされました。)このように、あなたがたも、最善のギフトである福音を、人々に伝えて行きましょう。
同日(日)、引き続き、ウエストオアフキリスト教会牧師の中村裕二師から、「ヨハネによる福音書4章46−54節」を中心聖句として、「イエスの言葉を信じて -- 心の共鳴」と題し、次のような礼拝メッセージを戴きました:
私は、OMS北米ホーリネス教会(OMS教団)のウエストオアフキリスト教会牧師であり、また、OMS教団の常務委員会に所属する伝道委員長でもあり、福音伝道につとめております。私は、20歳ー30歳台は、スクエア・バンドというジャズ専門バンドで、ギター演奏などをしており、神から離れていました。しかし、今から25年前、イエス・キリストのみ言葉の響きに共鳴して、「響き」、イエス・キリストを受け入れ、信じてクリスチャンとなりました。その「響く」ということが、大切な"KEY WORD"(鍵となる言葉)です。そのような信仰の響きをもって、神を賛美して行き、その神を賛美する響きを通して、また、未信者の人が、その響きに共鳴して、イエス・キリストを信じて救われて行くということを経験しています。
そのように私が救われるずーっと前、川越高校在学中、当時、私は、その全校生徒1,200名の中120名もいる吹奏楽団の1員としても活動していました。その時、NHK交響楽団の先生が来られ、「チューニング」について教えてくださり、「音を調律するということは、音の響きをよく聞いて調べることで、それは耳の訓練である」ということを聞いたことを思い出します。では、今から皆で、「ハレルヤ!ハレルヤ! - - - - 」を合唱して、自分の歌う声の響きを聞き、また、他の人が歌う声の響きも聞いてみましょう。そして、先ず、私たちが歌う時には、腹式呼吸法に従い、歌う前に、先ず、息を十分に吐き出したら、次は自然に、新鮮な空気を吸い込んでから、歌い出し、その自分の声の響きを点検することが大切です。次に、その自分の声の響きを聞きながら、人の歌声の響きも聞きながら、一緒に声の響きを合わせるというハーモニー(調和)が、合唱には特に大切です。
教会で歌うという時には、「神を賛美する」という音が響き、神のことば、「福音」が響き合って行くということです。イエスさまの弟子たちは、ペンテコステの日が来るまでは、とかく迷いがちでしたが、ペンテコステの日から、しっかりと信仰に立って歩みだしたのです。「使徒行伝2章1−2節」には、「天からの激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」と記されています。イエスさまの弟子たちは、ペンテコステの日に、神からのメッセージの響き渡る状況に直面し、その響きに共鳴して応答するかのように、神を信じ、希望に満たされ、その希望を人々に伝えて、互いに響き合って、調和し、一致し、それによって大きな力が発揮されて、初代教会が大きく建て上げられて行きました。
本日の聖書箇所、「ヨハネによる福音書4章46−54節」には、当時、カペナウムに住む王室役人の息子が、死にかかったので、その息子を思う父親は、そこから約20マイル離れたカナにおられるイエスさまの所まで、馳せ参じてイエスさまにお会いし、「私の子どもが死なないうちに下って来てください。」とお願いしたことが記されています。その父親は、イエスさまから、信仰が試され、「しるしと不思議を見ないで信じられるのかどうか」と聞かれたのですが、切羽詰って、「私の子どもが死なないうちに下って来てください。」とお願いをしているのです。その父親は、イエスさまから、「あなたの息子は生きる。」(53節ー新共同訳)という慈愛に満ちたお言葉を戴き、そのお言葉の響きに共鳴して、そのお言葉を信じて、不安が鎮められ、希望をもって、家路へと帰って行くのです。これは、まさに、「愛と信仰と希望」を示すものです。その父親が家に帰る途中で、しもべに出会い、「息子の熱は下がった」と告げられ、その熱の下がった時刻は、自分がイエスさまのお言葉によって不安が鎮められた時刻と一致することを知るのです。そして、家に着き、「彼もその家族もこぞって信じた。」(53節)ということが記されているのです。これは、イエスさまの愛のお言葉の響きが、人々に受け入れられて心に響き、共鳴し、信じられ、希望へと導かれて救われたのです。
今は、人と人との心が通じ合わない時代になっています。これは、人と人との心が響き合わない時代であるということです。私たちは、神のお言葉が、自分たちの心に響いてきて、その響きに共鳴できる時には、信仰に入るのです。歌うとき、息を吐き出したら、知らぬ間に、息を吸い込んで声を出してゆくように、苦い心の息を吐き出し、新しい息吹をいただき、その息吹が福音の声となって響くことによって、他の人々にも、その響きが伝わり、共鳴を起こし、神に導かれて行きます様にと祈りましょう。
同日、礼拝後、リフレッシュメントによる交わりの時を持った後、約1時間、中村裕二師により、「賛美の聖書的基盤」というテーマで、セミナーが開かれました。中村師は、「賛美と礼拝」という12週間に亘る講座をもっておられますが、当日は、その中、上記のような一部のテーマに絞って話してくださり、また、会衆からの質問にも答えてくださいました。次にその要点について記します:
最初に、皆で、「GOD BLESS YOU」(新聖歌198番;1995年作詞: 関根和夫; 作曲: 岩淵まこと)を歌い、特に、その歌の「あなたに神の祝福があるように」と「あなたに神が共におられるように」というせりふを繰り返し歌いました。
ウエストオアフキリスト教会は、「歌う教会」、「賛美する教会」というビジョンをもって建て上げられてきており、神の祝福をいただき、感謝しています。「使徒行伝2章46−47節」のみことばを図式化すれば、今から約2000年前に生まれた初代教会は、日々、「礼拝し」、「聖餐し」、「交わり」、そして「神を賛美し」、それによって、「すべての民に好意を持たれ」、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」ということです。
キリスト教における賛美とは、「神の徳と救い主を讃える」ということです。旧約聖書に記されている「賛美」というヘブル語原語には、多くのことばに分かれていますが、そのうち、主な3っ示しましょう。それは、(A)「ハレルヤ」、(B)「バーラク」、(C)「ツアーマル」というヘブル語です。その(A)「ハレルヤ}というヘブル語には、(A−1)「輝く」、(A−2)「叫ぶという強さ」、(A−3)「強く人の注意を引き付ける」、(A−4)「光の波(人の感覚や常識を超えたスピード感」、(A−5)「狂気」などといういろいろな意味があります。また、(B)「バーラク」には、「祝福する」という意味がありますが、神にこの言葉を向けたときには、人は神を祝福することはできないので、「讃える」という意味になります。(C)「ツアーマル」とは、「弦をつまんで弾く」という意味で、直接的な賛美の言葉は、この「ツアーマル」という言葉です。このように、賛美するということには、スピード感や強さがあり、ギターでも、シンバルでも、ピアノでも、何を用いても聖書的です。
初代教会は、人に好意を持たれていたのです。それは、歌う楽しさと共に、歌わせる楽しさもあったからです。ウイリアム・バークレイは、「楽しさを持った教会とは、神を誠意をもって賛美する教会であり、自分勝手な音楽で楽しむというような教会ではない」と言っています。教会で合唱する場合でも、一人よがりの声で歌っては駄目で、他の人の声も聞きながら、一緒になって歌い、第三者にはどのように聞かれているに注意する必要があります。初代教会が人々から好意を持たれていたということは、初代教会が、日々心を一つにして響き合い、一致していたということです。そのように、響くというところに一致があるのです。
2月8日(日)聖日礼拝では、「音楽のささげもの」として、JCFN(Japanese Christian Fellowship Network)の米国西海岸地区地区主事、後藤満喜、光代ご夫妻と山口喜恵姉の3人が、ギターとピアノを演奏しながら、「君は愛されるため生まれた」という韓国の歌を、韓国語と日本語で歌い、「一人一人が愛されるため生まれ、ずーと愛に満たされて、生涯生きて行く」ということを感謝し、主を賛美しました。この音楽は、バルカム・スーチャ姉によって捧げられる予定でしたが、彼女が風邪を引いてしまって、それが出来ませんでしたので、上記の3人が代わって捧げてくださいました。続いて、山口光師は、「創世記3章」を中心として、「アダム、エバそして皮の衣」と題して、次のようなメッセージをされました:
本日は、「人の存在」ということを確認したいと思います。神は、人を創造される時、先ず最初に、「土地のちり」から、「アダム」と呼ばれる男を創造され、その時、神がアダムに与えた仕事は、被造物に名前をつけるという仕事でした。私の妻と私は、生まれてくる娘の名前をつけるのに半年もかけ、また、その娘が生まれてからは、その名前を呼ぶ回数は、毎日100回では足りない程です。アダムは、神に創造された被造物に名前をつけるに当たって、その被造物を観察するのに多くの時間を費やし、その被造物と時間と空間を共有し、愛し、信頼し、喜んで、それぞれに特別な名前をつけて行ったのです。アダムが不注意に、愛もなく、それらの被造物に番号をつけて行けば簡単であったでしょうが、そんなことはしませんでした。神も、アダムがつけた名前で、被造物を呼んだのです。また、アダムは、それらの被造物を愛しましたが、それらの被造物は、アダムに、愛を返しませんでした。
その時、神はアダムの心をご覧になり、アダムの肋骨から女をつくられました。アダムの頭とか足から女がつくられて、男を支配するとか、男の奴隷となるということではありませんでした。「エペソ人への手紙5章22節、25節」に、男女のありかたが示されているように、女は、アダムの胸の骨から取られて、アダムの横にいる助け手である妻となり、愛し合い、アダムは、彼女がいることで喜び、「愛の歌」(これこそ、いまや、私の骨からの骨、肉からの肉 - - -)を歌ったことが、「創世記3章23節」に記されています。今週は、バレンタインの週ですから、夫婦で、ソロモンの「雅歌」を読むことをお勧めします。
男女間に主を置いて見る時、真実な姿が浮き出されますが、男女間にサタンが入ると、蛇の嘘に惑わされ、罪を犯すということが、創世記3章に示されているのです。「創世記」の1章には、天地万物のはじまり、人間のはじまりが記され、2章には、男女のはじまり、関係のはじまり、男女は、神と縦の関係を持ち、男女は互いに横の関係を持つことが示され、3章には、男と女の堕落、罪のはじまりが記されると共に、動物犠牲による罪の贖いという福音のはじまりも示され、生死の問題が伝えられ、4章には、家庭、社会、文化のはじまりが記され、5章には、歴史のはじまりが記されています。
神はアダムに、エデンの園での秩序とルール(創世記2章17節)を守るように命じました。その秩序とルールは、法律ではなく、人が神と共に住む上での決まりであったのです。主なる神は、アダムの住む世界であるエデンの園の中を歩き回りました(創世記3章8節)。また、そのエデンの園を歩いて神に仕える天使といわれる「ケルブ」(エゼキエル書28章13−14節)もいたことでしょう。そのようにして、人の住む世界に、主が行きめぐり、天使もいて、主が命じた秩序とルールが定められ、神からアダムに「園の中央にある善悪を知る木からの実だけは、取って食べてはいけない」という決まりを守ることが命じられたのです。エデンの中央にあるいのちの木と善悪を知る木という2本の木は、主のものとされる聖なるものであって、特に、善悪を知る木の実だけは、食べることが禁じられ、それを食べるということは、罪であったのです。
神に背を向けて堕落天使となったサタンである蛇は、罪を正当化し、それに騙されたアダムの彼女は、禁断の木の実を取って食べ、アダムも彼女にそそのかされて、それを食べた時、彼の目は開かれ(創世記3章7節)、霊の世界を見る目は失われて、霊の盲目となりました。その代わりに、新しい目をもって物事を見る時、罪をなすりつける関係となり、それまでの愛と信頼の関係からはずれ、的外れ(ギリシャ語の”ハマルテイア”)ともいわれる罪が入ったのです。このように堕落した天使、アダムの彼女とアダムに対する神のことばは「創世記3章14−19節」に記されています。アダムが罪を犯す前は、永遠のいのちが与えられていましたが、今や、罪を犯してしまったアダムは、死ぬいのちを持つようになったことが神から宣告されたのです。
そのような神からの宣告を聞いたアダムは、衝撃を受け、神を恐れ、へりくだり、主の名を呼ばわり、自分の罪を告白して悔い改め、同時に、神の方に向きを変えました。「創世記3章20節」には、アダムがそのような神から死の宣告を聞いた後、彼の女に、「エバ」という名前をつけました(創世記3章20節)。その名前の意味は、「すべて生きているものの母」ということ共に、「死に至るという限られたいのちを持つ私たちを根本から変えて、神によって生かされた”いのちを生む女”」という意味です。このように、アダムは、いのちの神に立ち返って、彼女を「エバ」と名づけたのです。何故ならば、創造主である神は、彼女を、「誘惑する女」(創世記3章12節)としてではなく、「助け手」(創世記2章18節)として創造してくださったということに気付いたのです。
神は、そのように神の前にひれ伏して、神に立ち返って行くアダムとエバの心をご覧になり、動物の皮を取って衣を作り、その皮の衣で、アダムとエバの罪を覆ってくださいました(創世記3章21節)。そのように皮とは、神の子羊であるキリストの皮であり、主ご自身のいのちが、皮の衣となって、罪を覆い隠してくださっていることを示しています。「コリント人への第一の手紙15章45節」には、「”最初のアダムは生きた者となった。”と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」と記されています。キリストに在って与えられたいのちを感謝しましょう。
でも、その後、アダムとエバは、もう、いのちの木の実からは食べられないように、神によって、エデンの園から追い出され(創世記3章23節)、今もなお、天使たちによっていのちの木は隠されています。しかし、「黙示録22章2節」には、「いのちの木」が示されています。そのいのちの木の実を食べれるとは、永遠のいのちが与えられていることを意味し、「私は道であり、心理であり、いのちなのです。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われたイエス・キリストを信じて、日々歩んで行くとき、やがて、永遠のいのちが与えられる”いのちの木”に辿り着くのです。「黙示録22章最後の21−22節」には、”これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン!。主イエスよ、来てください。”と記されています。私たちは、再臨の主にお会いするまで、忍耐が与えられ、神に導かれて行くように、お祈りしましょう。
2月15日(日)聖日礼拝で、山口光師は、「創世記4章」を中心聖句として、「アダムと息子たち - - それぞれの教訓」と題して、次のようなメッセージをされましたが、その前に先ず、今年の教会標語、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使途行伝16章31節)を会衆一同と共に唱えた後、「家族に心を留め、人と人との関係を見直したら素晴らしいですね。」と前置きをされました:
人類最初のアダムとエバは、神によって創造され、「エデンの園」という「喜びの園」に置かれました。そのエデンは、神と自然と人とが共存する喜びの世界でした。しかし、その最初の人が罪を犯してからは、エデンから追放され、エデンの喜びの世界から、エデンの外で、「不安と向き合う世界」に住むようになりました。その世界は、物質的世界と霊的世界が分離された今の世界と同じで、善悪が見えてくると共に、霊的な目がすすけて来て、神が見えなくなった世界です。しかし、人がその罪を悔い改めた時、人は、三位一体の神が信仰によってのみ見えてくるようになり、神である主は、動物の皮の衣で、その罪を覆い、罪を贖ってくださいました。それによって、女は出産の喜びが前途にあることを知り、男は収穫の喜びが前途にあることを知りました。本日の聖書箇所、「創世記4章」には、アダムとエバによって、カインとアベルとセツという3人の息子の父と母となったことが記されています。
その「1節」には、アダムが、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言ったことが記されていますが、その「主」というヘブル語は「ヤハウエ」となっており、その言葉には、「唯一の救い主(贖い主)」という意味があり、その「主」を近くに迎えた者だけが、「主」と呼ぶことが出来るのです。エデンを見た人は、アダムとエバだけであり、そのほかは蛇であったサタンでした。アダムは、子供たちに、そのエデンやサタンや贖い主を伝え、それを知ってもらい、「信仰によって生きる」という信仰の人生経験を伝えることによって、子供たちが、生きている価値を見出していけるように導くのが、自分の使命であると決意をしたのです。その「使命」とは、三浦綾子が記しているように、「命を使って残していく財産」です。
「創世記4章26節」には、アダムの3男のセツが、父と同じ信仰に立って行き、人々は、セツと共に、主、「ヤハウエ」の名によって祈ることを始めたことが記されています。このように、アダムの信仰が一人一人を通して、見える形で継承されて行き、報いが与えられて行くということは何と素晴らしいことでしょう。
アダムの長男、カインは、父と同じように、土を耕すという過酷な生活をしましたが、父と同じような信仰に立つことは出来ませんでした。次男のアベルは、過酷な現実の中で、エデンの園にあこがれて育って行き、羊を飼う者となり、その羊の皮の衣を作って行く生活に入って行ったのです。ある収穫の時期に、その収穫を喜ぶと共に、神から戴いた愛の負債に応答して捧げる、神へのささげ物がカインとアベルから捧げられました。その時、カインの表情は重く、冷たく、硬く、カインからの神へのささげ物に、神に目をとめられませんでした。カインの心は、父にもアベルにもわかりませんでしたが、神だけがご覧になったのです。一方、アベルは、羊の初い子の中から最良のものを選んで神に捧げ、神はその心に目を留められました。カインは、そのアベルをねたむというサタンに誘惑されて、アベルを野で殺しました。「ヘブル人への手紙11章4節」には、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」と記されています。また、「マタイによる福音書23章35節」には、「聖書に記される最初の”アベルの血”から最後の”ザカリヤの血”の報復が、偽善者の上に来る」ということも示され、カインは偽善者の雛形となっています。その後、カインは、神のあわれみで、エデンの東にある「ノドの地」という「さすらいの地」に移り(創世記4章16節)、復讐のことを子孫に伝え、アダムから数えて7代目のレメクは、彼を殺害しようとする者を殺して復讐して行きました。
ヨハネの手紙 第一3章12節」には、「カインのようであってはいけません。」と諭すみことばがあります。アダムはカインが神から離れる姿を見て悲しんだでしょう。アダムも嘗ては罪を犯すという失敗をしましたが、悔い改め、主にあって救われ、主と共に歩み、エデンを回復できるという人生教訓、"Life Message"を学び、3男のセツにエデンの世界を見せて上げることに成功し、御国に入ることを待ち望んで行ったでしょう。私たちも、アダムを模範として、私たちだけではなく、私たちの家族も救われるように、伝道し、祈って行きましょう。
2月22日(日)聖日礼拝では、マックルアー・マーク先生が、「マタイによる福音書4章1−11節」を中心聖句とし、「"Entering the Wilderness"(荒野での断食)」と題して、英語でメッセージをしてくださり、それを山口光師が、次のように日本語に通訳されました:
本日の聖書箇所が強調していることは、私たちが、LOGOS(神のことば)であるイエスさまを示す聖書を離れては、生きていけないということです。イエスさまが洗礼を受けた後、公的生活に入られる前に、御霊の導きによって、荒野の砂漠で、40日40夜の断食をされましたが、それは、その間、お祈りをして神と対話をされるためでした。「マルコによる福音書1章12−13節」にも、そのことが記されています。イスラエルでは、昔から、宗教を超えて1ヶ月間の断食をする人が多いのですが、その断食は、日中の断食だけで、日没からは食べ始め、翌日の朝からはまた、日中の断食をするという繰り返しです。しかし、上記のように、イエスさまの断食は、夜も昼も40日間は、断食されたのです。でも、水だけは飲まれたことでしょう。そのようにして、イエスさまが、40日40夜の断食を終ろうとした時、イエスさまにサタンが誘惑に来ましたが、イオエスさまは、まことの神だけを崇め、礼拝したのです。
今週の水曜日、2月25日からは、レント(Lent; 受難節)が始まり、その「レント」とは、「延長;the Spring」という意味があり、イ−スター(イエスさまの復活記念祭)前の40週日間(日曜日を入れれば46日間)の期間です。そのレント期間中の日曜日は、主イエス・キリストの復活を喜び、主の恵みを覚えて歩む日で、サタンに勝利する日であるので、断食は中断したのです。初代教会時代から、イースターに備えて、レント期間に断食しても、その期間中の日曜日には、主の体であるパンを戴き、主の血潮であるブドウ酒を戴くという、特別の備えがありました。また、その特別の備えのレント期間中は、未信者の人がイースターの日に受ける洗礼式に備えて、聖書の学びを通しての訓練、育成があり、信者に対しては、悔い改めの時であり、主と向き合って、献身を見直して行く時でもあり、レント期間を大切に保ちました。
レントの始まりの水曜日は、"Ash Wednesday"(灰の水曜日)といわれ、イエスさまが裏切られた日が水曜日であったことを覚え、イエスさまを裏切った自分の心を悔い改めて、額に灰を塗り、その日以後、イエスさまを心に刻にでゆく日となったのです。そして、「マタイによる福音書6章1−6節;16−18節」には、善行、施し、祈り、断食などは、人に見せるものではなき、人目のつかないところで、心から行いなさいと、イエスさまが諭しておられることも、覚えておきましょう。また、善行、施し、祈りなどは、価値があると思われていますが、断食も、体の中の不純物を取り除いてきれいにし、霊的にも、イエスさまの荒野での断食のように、いのりを通して、神と一つになるという大きな価値があるのです。
その他、「ダニエル書10章1−3」には、ダニエルが3週間の断食後に、神からのビジョンが与えられたということが記され、「ルカによる福音書4章1−2節」には、イエスさまが、40日の間、「何もたべず」と記されており、水は摂取されようにも思えます。また、「使徒行伝9章9節」には、サウロ(パウロ)が、復活の主イエス・キリストにお会いしてから、主への信仰を決心するまでの3日間は、「飲み食いもしなかった」ということが記されています。それによって、人は3日間は、水分補給がさなくても生きているということがわかります。
クリスチャンの断食は、祈りを持ってするもので、その断食行為は、神の目には留まりませんが、断食の心は、神の目に留まるのです。その断食には次の5種類があります:@ 肉だけ食べない; A 肉、卵、チーズ、バターは食べない; B 肉、卵、チーズ、バターと魚は食べない; C 肉、卵、チーズ、バター、魚、油、アルコール類は食べない; D 水とジュースと蜂蜜と木の実以外のすべての飲食摂取を断つ。このように、軽い断食から、厳しい断食まで、いろいろありますが、食事制限中に、食事を口にしたいという誘惑に駆られた時には、荒野でのイエスさまの断食を思い出しましょう。ところで、完全断食をしたいと思う人のために、アドバイスしたいことがあります。その断食は、いつもの食事を徐々に、少しずつ軽くして行く方法で、たとえば、断食の初めは、1日1回の食事を断つことから始め、次第に食事回数を減らし、食事内容も変えて行くようにし、その代わりに、水分を多めに摂取し、甘いものや乳製品の摂取は止めることです。また、テレビを見ず、コンピューターも使わず、車での外出をやめ、静まった時を持つことです。
イエスさまは、荒野での40日40夜の断食で、ご自分の身を洗いきよめ、十字架までの歩みを続けて行かれたのです。断食は自己吟味のときであり、肉の欲に勝利する時です。本日は、この後、スモール・グループでの分かち合いの時が終わりましたら、聖餐に与ります。イエスさまが、私たちの罪の身代わりになって救ってくださったことを、私たちは信じ、自己吟味して、パンとブドウ酒を戴きましょう。自分の罪をイエスさまと共に十字架につけ、イエスさまの復活と共にして、自分も新しい人生を歩み出しましょう。
この後、スモールグループに分かれ、お互いに自己紹介をし、@ 本日のメッセージについての感想を述べ合い; A お祈りでは、いつ、どこで、何を目的としてお祈りするか; B これからの聖餐に備え、神様に「赦し」を求め、神様への奉仕のために「よみがえりの力」を求めるという祈りを具体的に分かち合いました。その後、マーク先生は、結びのメッセージとして、「ペテロの手紙第二1章18−21節」を引用されながら、「神は、アダムとエバを創造される前から、人の罪への解決策を計画されており、人々に信仰と希望が与えられたということに感謝しましょう。」と力説されました。
続いて、マーク先生が、「ルカによる福音書22章7−8節と19−21節」を参照されながら、山口光師と共に、聖餐式を執り行われました。
2月29日(日)聖日礼拝では、山口光師が、「創世記5章」を中心聖句とし、「主の約束を相続して生きる」と題して、次のようにメッセージをされました:
「創世記5章」には、人類最初のアダムから10代目のノアまでの系図を通して、神からの語りかけ、メッセージが示されています。そのような系図とは、人の目でわかる個人の歴史であると共に、神の側にある「HISTORY」即ち、"HIS STORY"とも言われる「神の物語り」でもあります。その歴史とは、族長時代のアブラハムの信仰が、世々に亘って受け継がれて行った姿が記録されているように、そのずーと前の人類最初のアダムを初めとする家長も、人と神との関係である信仰を築き、その信仰を家族に手渡して行き、その信仰が次世代にも次々と相続されて行った姿を示す記録です。そのような歴史である系図からは、家長たる者が、土地や動物などという有形財産だけではなく、信仰という無形財産をも、次世代に手渡し、相続していった姿が示されます。本日の聖書箇所には、アダムの信仰が、3番目の息子であったセツに相続され、エノクに受け継がれ、ノアに継承されていったことが、示されています。特に、エノクは、「神とともに歩み、365歳で神が彼をとられた」(創世記5章24節)と記されており、エノクが生きたまま、365歳の時に、空中に携挙されたというような、信仰の篤い人でした。そのような信仰の継承は、「使徒行伝16章31節」の「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という聖句にも示されています。
アダムが、天父、御子、御霊の三位一体の神(エロヒーム)によって、神のかたちに似た男の人として創造されて、アダムと名づけられた時には、死なない体として創造され、また、アダムを助けるパートナーとなる女の人、エバが、アダムの肋骨から創造された時には、2人とも神と共にエデンの園に住み、永遠のいのちが与えられていました。しかし、その2人が、神から禁じられた木の実を食べて罪を犯しために、エデンの園から追い出され、その罪を悔い改め、神に贖われ、神の恵みを戴き、信仰によって、人生をやり直しました。でも、その体は朽ちる体となり、労働に労苦を覚え、死ぬ体になったのです。そのアダムとエバに、アダムのかたちどおりの子、3番目の息子が与えられ、心からの慰めを受けて「セツ」と名づけられたのです。「ローマ人への手紙3章23−24節」に示されるように、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることが’できず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」という、「信仰」を受け継ぐ者として、セツが生まれたのです。
アダムから9代目のレメクまでの平均年齢は、800歳以上でした。アダムは、930歳の長寿を全うして死にましたが、その時は9代目のレメクの66歳頃でしたので、それまで、9代目までの家族と共に生きてきたのです。しかし、その頃は、地上に人の悪が増大したため、神は心を痛め(創世記6章5−6節)、アダムから10代目のノアが600歳の時代には、地球規模での大洪水を起こされたのです。但し、神は、その洪水の起こる前から、信仰の深かったノアに目を留められ、ノアに、その大洪水に備えて箱舟をつくるように命じられ、また、その中に、動物類のつがいと、ノア夫婦と3人の息子夫婦の合計8人が入るようにと命じられ、ノアはその神の命じられた指示に従ったので、その大洪水の難から救われました。しかしその他の、全世界の人も動物は、その洪水で死んでしまいました。
その大洪水前の古い天(複数)と古い地(単数)の間の上空は、水の層がありました(ペテロの手紙 第二3章5節)。しかし、その地上の水の層が、地球上に落ちて大洪水となった後に、現在の天(複数)と地(単数)があり(ペテロの手紙 第二3章6節節)、それ以降、神は、「人の齢は、百二十年」(創世記6章3節)へと短くされていったのです。そして、「その現在の天と地は、将来、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで保たれている」ということも、「ペテロの手紙 第二3章7節」に記されています。更に、その後、キリストと共に聖徒たちが治める千年王国時代に続き、新しい天(単数)と新しい地(単数)「黙示録21章1節」が開かれるのです。
ノアが600歳の時に、大洪水が起こり、イアの祖父であったメトシェラは、その大洪水によって、969歳で死にました。恐らく、メトシェラは、信仰を持つことが出来ず、大洪水によって滅ぼされたのでしょう。私たちも、メトシェラが、不信仰の故に大洪水で死んだことを覚え、また、エノクのように、信仰をもってサタンに勝利して行きましょう。私たちは、アダムから受け継いだ朽ちる肉体を持ち、アダムの罪の性質も受け継いでいる者ですが、信仰に生きて歩んで行き、蘇りのいのちを戴き、約束の地である新天新地に入って行き、勝利が与えられますようにと、お祈りしましょう。
光岡恭平通信員