2003年10月5日(日)は、家族での聖日礼拝の日で、キッズ・タイムがあり、サンデー・スクールのリチャード・ハイデイ姉と生徒5人も、共に礼拝堂に集り、ハイデイ姉は、子供たちに、「福音(Gospel)について聞いたことがありますか?それに応答しましたか」、「福音(Gospel)を知っていますか?」などと問いかけ、一人の生徒から、「ハイ!それはイエスさまです。」という答えも返ってきました。そこで、ハイデ゙イ姉は、子どもたちに、「そのような福音(Gospel)を示す聖句はどこですか?」と問いかけながら、「そのような福音(Gospel)を色で覚えると簡単ですね」と説明し、福音(Gospel)を示す聖句が記された5つの「しおり」に、それそれ色別に着けられた、黒、赤、白、緑、黄色のリボンを次々に見せながら、次のように話されました:
「黒色」のリボン: 「この黒色は、[心が黒]ということで、その聖句は、[ローマ書3章23節]にあります。誰か、その聖句を覚えていますか?」と問いかけ、すぐに一人の生徒から、「ハイ!知っています。それは、”すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず”という聖句です。」と、英語の聖句が響いてきました。更に、ハイデイ姉は、[イザヤ書53章6節](”私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの自分かってな道に向かって行った。”)という聖句や、[エレミヤ書17章9節](”人の心は何よりも陰険で、それは直らない”。)という聖句も引用しながら、「それらの聖句は、人の心が黒で、罪深いということです。」と示しました。
「赤色」のリボン: この赤色は、「ローマ書5章8節」(”しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。”)という聖句が示す色です。キリストは、私たちの罪をあがなうために、十字架で死んで赤い血を流されたのです。それでも、まだ、続けて罪の中を歩み、神に裁かれるという悪い結果に陥っている人がいます。
「白色」のリボン: この白色は、「イザヤ書1章18節」(”たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。- -”)という聖句や、「イザヤ書44章22節」(”わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。”)という聖句が示す色です。
「緑色」のリボン: この緑色は、「ペテロの手紙 第ニ3章18節」(”私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。- - ”)という聖句が示す「主にあって、成長して行く色」です。
最後の「黄色/金色」のリボン: ハイデイ姉は、先ず、「この黄色のような金色のようなリボンは、[金色に輝く色]を表しています。今まで色んな色のリボンを見せてきましたが、あなたがたは、何色ですか?」と問いかけ、ある生徒からは、「私は緑です。」という答えも返ってきました。続いてハイデイ姉は、「黙示録21章21節」(”また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大道りは、透き通ったガラスのような純金であった。”)や、「黙示録21章23節」(”都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。”)とう聖句に基づき、小さい真珠を見せながら、「その真珠が大きくなれば高価になるのですよ。」と話しました。また、「10カラット金は柔らかく、14カラット金や18カラット金は全部が金ではなく、24カラット金が、純金です」と説明しました。そして、「天の都の大通りは、その24カラット金で出来ていることが聖書に記されているのですよ。」と話されました。終わりに、ハイデイ姉は、「このような天国に行けるように人々にも伝え、地獄に行くことがないように、自分たちの心の色を覚え、24カラットの純金を目指して、救いの道を歩みましょう。」とまとめました。
同日、続いて、山口光師は、「エペソ人への手紙6章10-12節」から、「最後に言ったパウロの言葉」と題して、次ぎのようなメッセ-ジをされました:
”ハレルヤ!”"Praise the God!" 先ず、神をたたえましょう!日本では10月を「神無月」とか「神有月」とか言って、日本神道の祭りをし、米国でも「ハローウイン」があり、神以外のところに行くような誘惑もあります。私たちは、まことの神を求めていきましょう。来週、10月12日には、鳥越敬子さんの洗礼式があります。今日、敬子さんは、ロスアンゼルスで牧会されている義兄の教会に行き、敬子さんが来週、洗礼を受けることを知らせ、挨拶をしております。来週日曜日の礼拝後、敬子さんを囲んで、礼拝堂でポットラックで交わりの時を持ちます。罪人が神の子になるということは、神が私たちに見せてくださる奇蹟です。そのような救いの原点に帰って、お互いに喜びの時を持ちましょう。
パウロは、「エペソ人への手紙」を終わるに当たって、神を求める人に伝えたいことをはっきりと言っています。先ず、神の救いの業に気づかず、心が頑なになって、神のいのちから遠く離れている人(「エペソ書4章18節」)は、聖書のみことばに立ち返り、神の大能の力によって強められなさい(「エペソ書6章10節)と力説しています。
パウロは、「エペソ人への手紙」を、祈りで書き始め、その祈りは、神との関係で平和をつくり、仲間の人々(ユダヤ人、親子、夫婦、主人と奴隷など)との関係で平和をつくることにまで及んでいます。そのような「平和をつくる」ということは、どうしたらよいのでしょうか。
(A)それは、悪魔がすーっと入りこんで来て、「愛」が「敵意」と入れ替わるような機会を与えないことです(エペソ書4章27節)。また、世の終わりが近づくと、人々の愛は冷たくなり、互いに裏切り、憎み合うことも記されています(「マタイによる福音書24章10節」)。私たちは、イエスさまから十字架の愛をいただき、イエスさまの復活の力によって強められて行きましょう。悪魔に入りこまれて、無慈悲、憤り、叫び、そしりなど、悪意に満ちるということは、すべて捨て去りましょう(「エペソ書4章31節」)。
(B)また、実の結ばない暗闇の業に仲間入りしないように注意し、むしろ、それを明るみに出しましょう(「エペソ書5章11節」)。そのような悪意や暗闇をどうやって取り除くのでしょうか。それは、主の前に悔い改め、神は、私たちを愛してくださり、このような悔い改めを通して、きよくなって欲しいと願っておられることを覚え、贖い主であり、きよめ主であられるキリストを崇めましょう。
(C)主イエス・キリストは、十字架上での苦しみを受けながらも、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(「ルカによる福音書23章34節」)と、祈ってくださったのです。私たちは、主の前に悔い改めるところは悔い改め、砕かれて、神のみことばに聞き従って行き、悪魔の空しい、実のないことばに騙されることなく(「エペソ書5章6節」)、悪魔とは無縁になりましょう。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわしたのです(「エペソ書2章14節」)。
私たちの周りには、闇の力が働いています。私たちは、その闇の力と対立するのではなく、格闘するのです(「エペソ書6章12節」)。その悪魔は、私たちが天国に引き上げられず、暗い所へ滅ぼそうと、策略をもって戦いに挑んできますので、その策略に立ち向かうこうとができるために、神の武具を身に着けるのです(「エペソ書6章11節)。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせ、すべての主権の上にキリストがおられ、私たちのどんな戦いでも、立ち向かうことができる力を、主の側で与えてくださるのです(「エペソ書1章20-21節」)。
ここで、私の証しを致します。去る5月から6月は、教会年度末で、牧師の私にとって最も忙しい時でした。その時、私と家内は、詐欺師と出会って、銀行預金が殆ど取られてしまいました。その犯人は、米国人ではなく、ナイジェリア人で、組織的団体に属しながら、欧州やアジアの宗教関係者を騙す詐欺師で、その犯人を捕まえることができず、私たちが取られた金も戻っては来ませんでした。この事件は、物的にも、精神的にも、大きな戦いでした。しかし、この戦いを神に委ね、母もとりなしの祈りをしてくれ、その戦いに勝利できました。今は、家内も私も、そのナイジェリア人を憎まず、迫害にあっているナイジェリア人のために祈るようになりました。
私たちは、へりくだって、勇気をもって悔い改め、主を心に迎え入れ、同胞のためにも祈りましょう。本日は、世界聖餐日です。主の前に、罪を告白し、恵によって罪赦されることを感謝し、これからも主を仰ぎ、主に従っていけるように、導いてくださるようにお祈りしましょう。(この後、聖餐式が持たれました。)
10月12日(日)聖日礼拝では、教会員による「音楽のささげもの」として、バルカム・スーチャー姉が、ポータブル・楽器(アムニ・コード)を奏でながら、「God is my Redeemer(神は私の贖い主)」と「Blessed Jesus come to me(祝福されたイエスが私の方に来らる)」という2曲を独唱して、主を賛美しました。続いて、山口光師は、「詩篇127篇3節」を中心聖句として、「胎の実の報酬」と題して、次のようなメッセージをされました:
「霊の誕生」と「肉の誕生」: 去る数日間は、良いことで忙しい日々でした。それは、私たちの教会で、鳥越敬子姉さんが、今日の10月12日に洗礼を受けるという「霊の誕生」に備えての準備に忙しく、また、先週金曜日の10月10日に、娘(祈エステル)が誕生するという「肉の誕生」で忙しかったのです。
「第一テモテ2章15節」には、「しかし、女が、慎みをもって、信仰と愛と清さとを保ったなら、子を産むことによって救われます。」と記されています。このみことばは、女性が、出産によって自動的に救われるということではなく、出産の痛みに遭っても、その苦痛から救われるためには、「自制して、愛と清さと信仰を保ち続ける」ということが必要であることが示されているのです。家内と私は、娘の出産前の6週間は、「出産前の夫婦クラス」に出席して、出産のビデオを見て講義を受けながら、呼吸法も勉強し、また、実際に、家内の出産を通しても学ぶことができましたので、その学びを皆さんと共に分ち合いたいと思います。そのような出産についての講義や実際からの学びから示されたことは、「出産の苦しみ」は、次のように「イエスの十字架上での苦しみ」に類似しているということです。
(A)「裂ける」: 家内の出産前の夜中に、破水が起って直ちに入院となりましたが、この破水は、子宮口の皮膚が裂けることによって発生したのです。これは、イエスさまの十字架の際に、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」ということに類似しているように思われます。
(B)「激痛が体に走る」: 分娩には、激痛が伴うという試練があります。その時、米国では、麻酔をかけることが多いのですが、家内は、そのような麻酔なしで、子宮口が5CM位まで開くのに約10時間、更にそれから、10CM位開くまでの約2時間の激痛に耐えらることができ、病院側からも誉められました。イエスさまも、頭にいばらの冠を被せられ、手足を十字架に釘付けにされ、体中に激痛が走っていたのですが、それに耐えられました。
(C)「肉が割け血と水が出る」 出産の際には、肉が裂けて羊水が流れ出し、出血もあります。イエスさまも、十字架上で、ローマ兵からわき腹を槍で突き刺された時、死亡後の現象である、「血と水との分離流出」によって、既に死亡していることが確認されたのです。
(D)「出産の所要時間」: 破水から出産が完了するまでの所要時間には、個人差はありますが、大体、数時間から丸1日位はかかります。十字架に釘付けにされてから、死亡するまでの時間も、個人差はありますが、大体、数時間から丸1日位はかかります。(イエスさまは、十字架につけられてから、約6時間余りで息を引き取られたのです。)
(E)「痛みを通過した後の喜び」: 出産して、新しく生まれた生命体を見た時、その産みの苦しみも忘れて、喜びと愛に満たされます。そのように、イエスさまの復活に出会った人々は、愛と喜びで満たされました。
(F)以上のような学びから、「女は子を産むことによって救われる」とは、「だれでも、自分の十字架を主と共に通らなければ、救われない。」ということでもあると、強く示されました。
「胎の実の報酬」: 「詩篇127篇3節」には、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」と記されています。「報酬」とは、労働(英語で、"LABOR")の後に支払われる賃金です。「出産」という英語も、"LABOR"で、「出産の苦しみは、女に課せられた労働」であって、その出産という労働に対する「報酬」とは、その出産によって生み出された赤ちゃんを見て、出産の苦しみも忘れさせる「愛と喜び」ということです。その「愛」とは、十字架を通って始めて無条件に赤ちゃんを可愛いと思う親の愛情に通じます。また、その「喜び」とは、十字架を通過して与る命から受けるもので、LABORの苦痛を忘れさせてくれるものです。
私たち、「ノースカウンテイ・クリスチャン教会」も、将来、試練を通るかもしれませんが、無条件の愛と喜びを見上げながら、主に迎えていただけるよう、願い求めましょう。そして、花嫁である教会が、花婿であるイエス・キリストに迎えられ、「よくやった」と言われるような歩みを続けていきましょう。また、今、妊娠している婦人たち、霊的に"LABOR"の中を通っている教会員たちを、愛と喜びをもって励ましていきましょう。又、今日はこれから、鳥越敬子さんの洗礼式を行い、新しい「霊の命の誕生」を喜ぶ日です。皆で、「霊の命の誕生」に感謝し、主を賛美しましょう。
同日、礼拝メッセージに続き、鳥越敬子姉の洗礼式が、山口光師の司式によって、執り行われ、その後、鳥越敬子姉とその御家族や親類の方々を囲んで、ポトラックによる交わりの時を持ち、喜びを分ち合いました。その洗礼式に先立ち、鳥越敬子姉は、次のような救いの証をされました:
私は、去る5月、サンデイエゴのQUALCOMM STADIUMで開催された、「ビリー・グラハム宣教大会」でイエスさまを救い主として受け入れる決心をし、今日、家族や教会員の前で、この教会堂で、洗礼を受けることになっていることを、主に感謝します。多くの方々のお祈りにより、私の父も、イエスさまを救い主として受け入れ、来週の日曜日に、サンデイエゴ・日系キリスト教会で、大倉信師から洗礼を受けることになっています。
このように、多くの方々によって、私と父が救われるようにと、長い間、祈ってくださったことを知り、その多くの方々と共に、特に、この洗礼を最も喜んでいる私の母と、姉の大谷家族と共に、喜びます。私の母は、言い尽くせない喜びと幸せにうちひしがれています。
ビリー・グラハム師のメッセージは、かねてから聴きたいと望んでいたものでした。ですから、そのメッセージを聴いた時は、素晴らしい経験でした。その時、私は、温かい愛が注がれ、言うに言われぬ喜びに満たされました。
また、多くの人々が、その会場で、イエスさまを自分の救い主として信じましたが、「今、信じた人は、前の広場にでてくるように」という呼びかけに応じて、私も押し出されるようにして、その広場に降りて、ビリー・グラハム師の前に立っていました。神は、迷える羊のような私を、忍耐をもって、この教会に導いいてくださいました。私はそのような導きに感謝し、私の歌うことができる新しい歌に感謝し、今、礼拝で持っている喜びに感謝します。
以前、私は、教会に出席するには、自分の態度を正しくする必要があると信じるのが常で、自分は、教会に出席する資格がないと思ってきました。従って、私は、このように神を否定するという罪を持ち続け、自分の欠点を処理することにあくせくとしてきました。しかし、キリストを信じるようになった人は誰でも、その人がどんなに罪深くあっても、その罪が赦されるのだということを知りました。そして私は、神のところに来ました。このような罪深い者を捨てずに、運び上げてくださった神に感謝します。私がクリスチャンとして生きるいのちを神に感謝します。
去る8月に、私の妹が突然、この世を去りました。彼女は、この世を去る数時間前まで、私と話していたのだということを知り、それから数週間は彼女の死に苦しめられました。しかし、それから2ヶ月後、そのような悲しみを克服し、彼女は天でイエスさまの腕の中におり、平安であるということを実感するようになりました。私が去る5月に、キリストにある信仰へと造り変えられたということは、今思えば、既にその時、私の妹の状況を知っておられる神が、その後に起る妹の死という試練に直面する私を整えるように、神が前もって定めてくださっていたということを信じています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ人への第一の手紙 5章16-18節)。このみとばは、最近、いつも私の心に響いてきます。私は、まさに、明るい光の中に入ったような喜びに満たされています。今からは、私の夫や息子の救いのために、祈る時間を持ちたいと思います。私は、心から神に頼り、すべのことは、今、神の御手の中にあることを信じ、感謝をもって、私の生涯を生きようと望んでいます。
10月19日(日)聖日礼拝では、マックルアー・マーク先生が、「エペソ人への手紙5章25-27節」を中心聖句とし、「Jesus Washed(水で洗いきよめるイエス)」と題して、英語でメッセージをしてくださり、それを山口光師が、次のように日本語に通訳されれました:
「水」について: 私たちは、水に囲まれて生きています。「根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す」(ヨブ記14章8-9節)と記されているように、私の家の庭も、20年前にあった3エーカーのアボガド畠の跡で、雨降りの後、その土の中に残っていたアボガドの根から芽が出てきて、花が咲き、実が結ばれてきました。また、風邪や病気の予防に、できるだけ多くの水を飲ませるという「水治療(hydrotherapy)」もあり、それは、体内機能を新しくしていく療法です。
「水」とは「神のみことば」: 本日の聖書箇所に記されている「水」とは、「神のみことば」であるということが示されています。私たちは、毎日、いわば「みことば治療」を受けて、「生きた水」である「神のみことば」をいただき、全身全霊をきよめていただきましょう。神であるキリストは、礼拝でも、牧師を通して語られるみことばをもって、私たちの内に働いて、改めるように示されるのです。それは、私たちの理解力によるのではなく、「みことばが、私たちを洗い、きよめる」(エペソ5: 26)ということです。また、「主のおしえを口ずさむ人は、何をしても栄える。」(詩篇1: 1-3)というように、みことばに浸っていれば、御霊の実を結ぶのです。
「生きた水」(みことば)のただ一つの水源であるイエスさまへの従順」:
(A)私たちが、みことばに従順なら、主イエス・キリストとの関係にどっぷりと浸れるのです。旧約聖書に示される律法の目的は、人々を主との生きた交わりに導くことでしたが、自己義認では果されません。いつも、私たちは、イエスが十字架の死を通して顕わされた、ご自身の私たちに対する愛を覚え、毎日、いつも、イエス・キリストにある信仰の交わりを保つことによって義と認められ、きよめられましょう。
(B)「ヨハネによる福音書1:
14」に、「みことばであるイエスさまは、父なる神の独り子ですが、人となってこの世に来られ、恵みとまことに満ちておられた。」ということが示されています。
(C)「ヨハネによる福音書5:
24」に、「イエスさまのことばを聞いいて、イエスさまを遣わした方を信じるなら、永遠のいのちを持つ」ということが示されています。
(D)「ヨハネによる福音書8:
51」に、「イエスさまのみことばを守るならば、決して死を見ることはない。」ということが示されています。
(E)以上のように、神様は、私たちが、みことばに従順であることを求めています。親が子を躾る時に、子の従順さが求められ、それによって相互関係がオープンになり、喜びや豊かさが与えられていきます。私たちも、神様を私たちの父親として信頼し、御子イエスさまが、私たちの罪の贖いのために十字架にかけられたという神の愛をいただき、従順に、みことばに聴き従って行きましょう。
(F)「みことばを渇き求めましょう」: 聖書は、創造の初めからこの世の完成まで、みことばによって始まり、みことばによって完結します。「ルカによる福音書」には、みことばは、初めからの目撃者によって伝達されてきた、と記されています。「創世記」は、神の口から出たことばによって始まり、「ヨハネによる福音書1:
1」には、その創造のみことば自身が神であるイエス・キリストであるということが示されています。また、「ヨハネの黙示録21:
6」には、「わたし(イエス・キリスト)がアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたし(イエス・キリスト)は、渇く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。」ということも示されているのです。
(G)「イエスさまがいのちの水の水源です」: イエスさまは、井戸に水を求めてやってきたサマリヤの女に対して、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と言われたのです。
「イエスさまの水に関するみことば」:
(A)それは、天と地と水を創造した方のみことばであり、決して、哲学者の言葉ではなく、また、実態のない神秘的な言葉でもありません。
(B)また、それは、モーセと共に、イスラエルの民が、エジプトを出る時に、紅海を真っ二つに分けた方のみことばです。
(C)また、それは、ヨシュアと共にイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って、カナンの地に行く時も、その川を分けた方のみことばです。
(D)また、それは、エリヤとエリシャのために、ヨルダン川を分けた方のみことばです。
(E)また、荒野でモーセは、民が水の渇きに苦しむ時、岩から吹き出た水がありましたが、それはイエスさまです。
(F)イエスさまは水の上を歩き、ペテロは、その水の上を歩かせられました。
(G)イエスさまは、カナで、水をワインに変えました。
(H)世の終わりには、イエスさまはもっと奇しい素晴らしい事をなさるでしょう。しかし、今この世にあって、最もイエスさまの存在を証しするものは、「生きたみことば」です。イエスさまは私たちにとって、「生きた水」即ち、「生きたみことば」であり、「いのちの水」即ち、「いのちのみことば」です。イエスさまは、私たちの魂を幾度となく癒し続けているのです。
「洗礼」について: 先週の日曜日は、鳥越敬子さんが、洗礼をうけるという恵みと喜びの時がありました。洗礼を、ペテロは、ノアの洪水と重ねて見ています(Iペテロ3: 20-23)。ノアの洪水を通して救われたのは、ノアの家族8名だけでした。それ以外の人は、事前にその洪水を告げられた神のみことばに聴き従わなかったので、その洪水で洗い流されて滅亡したのです。そのように、神に逆らう自我は、洗礼によって死を迎えたということです。また、ノアの家族8名が生き残ったように、洗礼によって、新しい蘇りのいのちが与えらることが示されています。
「主にきよめていただき、互いにきよめ合いましょう」:
(A)教会にある私たちは、キリストの花嫁であり、キリストの体である教会の一部です。イエスさまは、今もみことばで私たちを洗い、きよめます。夫婦になったのに、別居して、違う場所に住むほど悲しいことはありません。「申命記24:
5」には、「新しく結婚した夫は、一年間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」ということが定められています。イエスさまとの結び付きも、地上の結婚という関係から悟り、花嫁なる私たちは、「主イエス・キリストのみことば」をいただいて、洗い、きよめていただき、主に対して従順になり、主の目にかなうようになることです。
(B)教会員は、主にあって互いに足を洗い合うように仕え合い、お互いにみことばを通してきよめ合いましょう(ヨハネ13:
13-14)。
以上のようなメッセージの後、3-4名ずつのスモール・グループに分かれ、「救いの泉からの水」(イザヤ書12: 2-3)、「きよい水で洗われた」(ヘブル書10: 22)、その他、「みことば」についての聖句(詩篇の18:30; 33:4; 107:20; 119:11; 119:28; 119:37; 119:89; 119:105; 119:114; 119:133; 119:172; 130:5; 30:5など)を輪読し、その「みことば」を読んだ感想や、「みことば」にもっと親しむために必要な祈りの課題を挙げ合いました。
その後、マーク先生は、「黙示録7: 17」(いのちの水の泉に導く)、「黙示録22: 1」(いのちの水の川)、「黙示録22: 17」(いのちの水)などを参照しながら、私たちが、いつも「イエスさまのみことば」を慕い求めて行き、イエスを通して、「いのちの水」に導かれ、すなおに御前に出て行き、主に引き寄せられ、主の御名が崇められますようにという祈りが捧げられました。
10月25日(土)午前10時から正午頃まで、当教会堂に、岸 義紘先生(日本のJTJ [Jesus To Japan]神学校学長、巡回伝道者、サキソフォン演奏者)をお迎えして、ゴスペル・サクソフォーン・コンサートが開催され、当教会の他、ボニタ日系聖書教会、サンデイエゴ日系キリスト教会、オーシャンサイドのファースト・バプテスト教会、EscondicoのICF (International Christian Fellowship)などから、約70名の方々が集りました。
そのコンサートで、岸先生は、先ず、「ソプラノ・サキソフォン」で、(1)「ケニー・ジー: "Going Home"」(人間の心を知りたいと求める歌)、(2)「アニー・ローサ」、(3)「アベ・マリア」、(4)「輝く日を仰ぐとき」(スエーデンの民謡の節に合わせて、米国で作られた聖歌で有名な曲。)などの演奏に続き、日本の歌として、(5)「ふるさと」(教会での子供のために、岡野定一が作った曲であるが、教科書に掲載されて有名になったものの、聖歌などには採用されなかった曲)、(6)「埴生の宿」、(7) 「みかんの花咲く丘」、(8)「荒城の月」(24才で病死した滝 連太郎が作った信仰の曲)の4曲も演奏しました。
次に、「テナー・サキソフォン」で、(9)「川の流れのように」(美空ひばりが歌って有名になった曲)、(10)「ルイ・アームストロング: "この素晴らしき世界"」などを演奏しました。
最後に、「アルト・サキソフォン」で、(11)「Amazing Grace」(世界で最も有名な曲で、米国の初期時代のメロデイにあわせて、John Newtonが作詞した曲; 彼は、アフリカから米国への移民する約1,500万人を船で運んだ船長であったが、その6人に1人は遭難で死亡するという事故から、自分の罪深さに目覚め、船長を辞めて神学校に入学して牧師になり、数々の賛美歌をつ作り、"Amezing Grace"も、その1曲。)、(12)「Summer Time」(子守唄、黒人霊歌)」、(13)「人生の海の嵐に」ほか2曲を演奏されました。
その奏楽の曲を解説されながら、岸先生が、クリスチャンの母親に育てられて62才になる今から6年前、その母親が78才で召天される直前の病床で話し合った時、お互いに主、イエス・キリストにある信仰と希望と愛に満たされ、永遠のいのちをいただく福音を喜び、感謝したというお証しもされました。
また、アンコールに応えて、「Give Thanks]もサキソフォンで演奏してくださいました。
10月26日(日)聖日礼拝では、同日、続いて、山口光師は、「エペソ人への手紙6章13-18節」から、「 平和をつくり出す戦い 」と題して、次ぎのようなメッセ-ジをされました:
私たちの「ノースカウンテイ・クリスチャン教会(North County Japanese Christian Church)が発足した2002年11月1日から、1年になろうとしています。私たちの教会は、昨年11月に、「イザヤ書43章19節」のみことばを戴いて、新しい教会名で、新しく歩み出したのです。世間では、11月はハロウイーンなどという感謝祭の月となっていますが、それに惑わされることなく、私たちは、主イエス・キリストに感謝し、この教会の発足を感謝する月であることを覚えましょう。この1年間は、私たちの教会も、この世と戦った1年間でした。世界も、紀元2,000年時代という新しい千年時代に入り、新しい平和と希望への期待とは裏腹に、テロと戦う時代に入り、ニューヨークのトウイン・タワーの崩壊、アフガン戦争、イラク戦争があり、中東に自爆テロの恐怖が続いています。「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」(エレミヤ書8章15節)というみことばの通りです。
このような時代にあって、教会がすることは何でしょうか?それは、「平和をつくり出す戦い」に生きて行くため、悪魔の策略に立ち向かって行き、主にあって平安と喜びを戴くことです。そのためには、次のように、(A)悪魔(サタン)の実存を認めること; (B)悪魔(サタン)の策略を見破ること; (C)悪魔(サタン)の策略に勝利できるお方であるイエスさまと共に歩むことです:
(A)悪魔(サタン)の実存を認めること: 天地創造の昔に、サタンが入ったへびは、木陰から巧妙にエバを誘惑し、ウソの知恵を教え、神からの本当の知恵を忘れさせてしまいました。今日も、同じように、教育現場でさえも、サタンが働いていることを認めましょう。
(B)悪魔(サタン)の策略を見破ること: サタンは、人がイエスさまと繋がることを妬み、人間を滅ぼして永遠の地獄へと追いやることを目的として、人々を騙し、臆病にさせ、嫉妬心などを起こさせていることを見破りましょう。
(C)悪魔(サタン)の策略に勝利できるお方であるイエスさまと共に歩むことです: イエスさまといつも、四六時中一緒にいたペテロでさえ、サタンの誘惑にやられたことがありましたが、その時、イエスさまは、直ちに、「サタンよ、退け!」と言われて、サタンを追い払ってくださいました。私たちも、いつもイエスさまと共に歩みながら教会を建て上げていく者でありたいと思います。新聞には、イエスさまを仏様とおきかえて天国への道を解説するような記事もあります。しかし、私たちは、イエスさまは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われたことを銘記し、主イエス・キリストにある信仰によって、「悪い者が放つ火矢」(エペソ書6章16節)という悪魔に立ち向かって、戦っていきましょう。
そのような悪魔に立ち向かって、戦っていく私たちは、次のような「神の武具」を身に着けましょう(エペソ書6章14-17節):
(A)「真理の帯」: この武具は、私たちの体を、神のことばである真理で備えて行く武具です。
(B)「正義の胸当て」: この武具は、私たちの心を、神にある正義で守って行く武具です。
(C)「足には平和の福音という履物をつけよ」: この武具は、砂利道であっても、自由に動けるよな履物である[福音]を足につけることによって、「イエスさまにある平和」(エペソ書2章14節)が実現され、「神と和解させ、敵意を廃棄させる」(エペソ書2章15節)という武具です。
(D)「信仰の大盾」: この武具は、サタンから放たれる火矢を消すという信仰の武具で、その大盾を、防御の武具として手にとるのです。
(E)「救いのかぶと」: この武具は、頭に被る武具で、「かぶと」とは、それを被る人が誰に属しているかが記されるものです。イエス・キリストを受け入れ、信じた者には、約束の聖霊の証印(エペソ書1章13節)が深く刻まれている「かぶと」を被るのです。この聖霊の証印に対して、悪魔の刻印は、「666」であることが「ヨハネの黙示録13章18節」に記されています。
(F)「御霊の与える剣」: この武具は、「神のみことば」そのもので、攻撃の武具として手に取る武具です。しかし、このみことばは、自己流に使う武具ではありません。聖霊がはっきりと示す通りに使う武具なのです。聖書をしっかりと読み、身に着けて、みことばの力である剣を、自分の武具として、サタンと戦う攻撃の武具に用いるということです。
では、そのような「神の武具」をどのように着けるのでしょうか?
(A)それは先ず、「知性において暗くなり、神のいのちから遠く離れている」(エペソ書4章18節)という状態から抜け出し、そのような「古い人(衣)を脱ぎ捨て」(エペソ書4章22節)、「新しい人(衣)、イエスさまである神の武具を身に着ける」(エペソ書4章24節)ということです。
また、私たちは、1人で悪魔と戦うのではありません。私たちは、教会を通して、神の兵卒である私たち1人1人の将軍であらえるイエスさまの下で、イエスさまと共に、悪魔と戦って勝利するのです。
11月1日(土)午前7時より教会ラメージセール(ウオーレンさん宅)
11月8日(土)午前10時: レッツ・トーク(サンデイエゴ日系キリスト教会゙)
11月14日(金)午前10時: 地区会(光岡宅)
11月18日(火)祈りのリトリート: 指揮者: マーク先生
11月21(金)午後7時: 地区会(デイ美智子姉宅)
11月23日(日)午後1時: 一周年記念礼拝
11月27日(木)サンクスギビング青年会(牧師宅)
11月30日(日)午後1時: 第一アドベント礼拝
旧ランチョ ラコスタ キリスト教会とビスタ日系キリスト教会から離れている方、又、教会員のご主人たちや子供たちの救いののため。
最近、子供たちが8-14名程、教会に来ています。ハイデイ姉が、彼等のお世話をして下さっていますが、サンデースクールの働きと、これらの子供たちのために、お祈り下さい。
家庭集会のホストが与えられ、地域別に、月一回の集会が持てるように。
マーク先生と山口光師とが、コ・ワーカーとして歩み、その牧会・伝道が祝されていくように。
合併教会設立のための公的資料(バイロー[Bylaw])を作成中です。それが速やかに備えられる様に。又、その資料をボランテイアで作成して下さるリチャード・マンウエアリング氏の救いと奉仕のために。
光岡恭平通信員