Message by Pastor Yamaguchi

 

 

「父アダムと息子たち〜それぞれの教訓」                   

創世記4章

 

祈り:

天におれらる私達の神様、あなたの聖なる御名を賛美します。あなたが今日御言葉で私達を探りその御言葉なるキリストに立ち返らせ、私達をあなたのものとして下さいますようにお願いいたします。 聖霊様の導きにこの時間を委ねて 御名によってお祈りいたします。 アーメン

 

主の御名を賛美します。ハレルヤ。

 

私達は今年「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と使徒行伝16章31節の御言葉を前に置いています。こういう御言葉に支えられて、去るイースターの時は10人のご夫人達が English Speaker のご主人達を導いて礼拝を共にしました。私達の願いは、夫婦で、そして家族で共に礼拝に出席して主を仰げるようになることですから、今日も私達の家族を心に置きながら、聖書を開いてみたく思います。

 

今創世記の4章を読みましたが3章のあらすじから入ります。よろしいでしょうか。

 

アダムとエバは、エデンという、自然と人間が調和する、神と人が空間を共有する、すばらしい園に住んでいました。エデンは文字通り「喜びの園」でした。その喜びを、人間は自らの罪によって追い出してしまい、代わりに、死の不安を背負い、これと向き合って生きてゆかねばならなくなりました。しかし、3章には、人間の死の不安を取り去るような神様からの祝福が約束されています。それは女には「夫と共に命を宿す喜び」として、男には「家族のために地の産物を収穫する喜び」としての祝福です。ですが実際に死の恐怖から人間を救ったものは他にありました。それは動物の衣です。これはつまり人間が身につけた「罪のおおい」です。人間の罪によって、エデンの調和に動物の血と死が入り、主の悲しみと愛の中で、罪をおおう衣は作成されました。これにより死すべき人はあがなわれたのです。

 

さてここから4章に入ります。

 

男と女は、エデンを離れました。男は収穫の喜び、女は出産の喜びがあることをそれぞれ信じて新しい場所に移り住みました。信仰がなければ、喜びも労働の苦しみと出産の苦しみとに変わります。又神様との間に平安もありません。アダム夫妻はエデンに全てを残してゼロから出発しました。皆さんがアメリカに渡ってきた時のようにです。(神様が罪人の私を生かして下さったのだから、これからも憐れんで下さるに違いない)という信仰がアダムを立たせていきました。しかし全て整っていた世界から、全てをゼロから整えていく世界へと進むのですから、男と女はもう罪の擦(なす)り合いなどしてはいられません。2章18節にあるように、お互いがお互いの「欠け」を補い、助け合う「助け手」として、ここから本当の意味で夫婦らしく成長していきました。

 

さてアダム夫妻の前途には大きな不安が一つありました。彼らが「禁断の木の実」を食べて善悪の世界が見えるようになった代わりに、霊的な世界への視力が落ちてしまっていたからです。これは彼らには大きな不安です。三位一体の神様を肉の目に頼ろうとしても見えず、不安な中で「信仰という目」を頼らずにはいられません。お気づきでしょうが、創世記4章には、もはやエデンという喜びの世界はなく、不安と絶えず向き合っていく新しい


世界が広がっています。それは、今日の物質世界と霊的世界が分離されてしまった様な不透明な世界といえるかもしれません。見えるようで見えなくなった世界です。

 

こういう世界で、エバは命を宿しました。最初にカインが、そしてアベルが誕生しました。三男のセツが続き、そして何人もの子供が誕生しています(創世記54)。ところでアダムとエバは最初の子が生まれた時、非常に喜びました。エバは初めて母となり、アダムは父となりました。不透明な世界で、目にみえる感動がここにあったのです。最初の子の出産に立ち会ったアダムはこう言っています。

 

「私は、主によってひとりの男子を得た。」(1節)

 

彼は天地万物の創造主をここではじめて「主ヤハウェ」と呼んだのです。主ヤハウェという呼び方は私の唯一の救い主、という意味です。お分かりになるでしょうか。今日「イエス」という名は信仰がなくても口にできます。信仰がなくても十字架をアクセサリーとして身につけ、クリスチャンを装ってみせることもできます。けれども「主ヤハウェ」という言葉は、メシヤ(キリスト)を本当に心に迎えた人の内側からしか生まれてこない言葉です。死の不安から救われたアダムは、命の創造を目撃して、神様をはじめて「主ヤハウェ」とここで呼んでいます。素晴らしい信仰告白ですね。

 

 

さて聖書を読み進むうちに、お気づきになるでしょうが、こうして生まれたアダムの子供たちは、父、母がエデンで経験した神様を同じ様に見ることはもうできません。エデン、つまり神様が最初に創造された完璧な世界、天国のモチーフである、この世界もアダムとエバの子供たちは知りません。アダムとエバ以外に神様の素晴らしい世界を知っている者がいるとすれば、それは大蛇のサタン です。サタンもエデンから追放されたので、御国の世界がどんな様子かを知っています。ただサタンがアダムと決定的に違う点は、神様から主ヤハウェという称号を取ろうとして失敗し、恥辱を受けてエデンを出たという点です。このサタンが神様をのろうのですから、サタンが御国に入る者たちを妬み、いかに御国へ入らせまいと誘惑するかがお分かりになるでしょう。皆さん、足もとをすくわれないように気をつけて下さい!

 

さて父アダムは、主と共存し喜びに溢れた世界があることを子供達に知ってもらいたいと心底願ったのではないでしょうか。そして今はどこに存在するか分からないサタンに、子供たちが誘惑されないようにと心配したことでしょう。

 

ですから、アダムはこの異国の地(!)で、エデンという喜びに溢れた御国の話を沢山子供たちに聞かせたはずです。父とされたアダムは少なくとも、そこに父としての使命を感じたにちがいありません。

 

果たして、子供たちは、主ヤハウェ、エデンという御国、そして罪のあがないと祝福について父から学ぶことができたでしょうか。私も、アメリカ生まれの娘には、親の故郷や日本の話しをこれから沢山聞かせてあげたいと思っています。また、私達夫妻が信仰の目で見て来たもの、天に用意された私達のエデン等についてお話をしてあげたいと思っています。それをアダムのように救われて親とされたの者の使命とさせていただけたら本当に素晴らしいことです。神様はこういう使命を信仰者に与えているのです。

 

ところでアダムが息子達に話して聞かせた話にはどんなものがあったのでしょうか? ここは憶測ですが、まずアダムは子供たちに、なぜ自分達がこの場所に来たか(来るはめになったか)を話したでしょうね。続いて自分達が着用している動物の衣と罪の赦しについて。「私の汚れはこれで覆われたんだ。だからお前達も着用している衣をみて、神様の赦しに感謝するんだよ。いいね。」と説明したのではないでしょうか。

又、父アダムが彼らの母エバの名前を着けたことについても、「私は永遠に生きられぬと主から死を宣告された後に、これからは信仰をもって生きることを、エバという名前で誓ったんだ。」こんな風に話して聞かせたのではないでしょうか。

 

アダムは人として生まれ、夫とされた後に罪を犯しました。けれども夫婦で悔い改め、夫婦であがなわれました。そしてついに父親となり、新しい命を育む責任と祝福を受けました。実に失敗もありましたが、アダムは神様を「主はヤハウェ」と慕いながら、主に助けられ、再び妻を愛すようにもなりました。 ご覧下さ

い。人生はやり直せるのです。人は神様と共存するときに始めてエデンを回復するのです。これが神様からのあなたへの福音です。アダムの教訓(ライフ・メッセージ)がここにあります。

 

皆さんの人生の教訓、ライフ・メッセージにはいかなるものがありますか?

 

神様にあがなわれた者は、次の世代に生きる者たちに、信仰というライフ・メッセージを残していきますが、皆さん、それを自らの使命とさせてもらいましょう! 

 

アダムの様に。周りの者は、私達の信仰の話を、単なる寓話として聞くかもしれません。カインとアベルは、父から聞くエデンの話をそのように聞いていたかもしれません。私達アダムのように伝える者は、そこで気落ちしてはなりません。ましてや自分の信仰を落すなんてことのないように。アダムは神様と出会い、神様によって救われたその場面を日々心に描き直し、カインがダメなら、次の者に次の者にと、同じライフ・メッセージを息子たちに伝えていったのです。勿論、自分の話に心を傾けてくれたと思いきや、アベルのように突然の事故で死に、あなたが蒔く福音の種に、芽も花も実も見せてはくれない時もあります。父アダムはそれでも、次の者に信仰を伝えていきました。やがて、アダムの信仰生涯に転機がやってきます。それは彼が仰ぐ主を、同じ様に仰ぐ子が起こされる時です。自分のライフ・メッセージを通して救われる者が起こされたら、あなたも同様の霊的転機を持つことでしょう。

 

アダムによって救われたのは残念ながら長男のカインではありませんでした。3男のセツでした。 4章の終わりの26節に「セツとその周囲の者は神様を主と呼び、祈る者になった」 と記されています。ハレルヤ。主はアダムの信仰に報いて下さいました私達も信仰でライフ・メッセージを伝えていくなら、同様の報いを(それも目に見えるような形で)受けられるのではないでしょうか。そう私は信じています。見えなくなったエデンの喜びが、誰かに継承されていくときに見えてくるのです。共に御国を見て行く、そんな家族を、仲間をさらに増やしていこうではありませんか! 

 

     

 

話を、アダムの現実にもどしましょう。

 

長男のカインは、父親と共に地を耕す者となりました。カインは父の話とは裏腹に、家族がこの世界で直面する過酷な生活を見て育ちます。次男のアベルも兄同様の現実を見て育ったことでしょう。けれども父親から聞いたエデンの世界、つまり御国への思いに関しては、同様とは言えぬものがありました。

アベルは、父親と同様の動物の衣を身につける度、父のライフ・メッセージに感動していたのではないでしょうか。そういう感動が、アベルを「羊を養う者」へと仕向けていったのでしょう。

 

息子たちは、父アダムの下で分け隔てなく育てられたはずですが、その彼らの心には信仰のズレが生じていました。彼らの心の状態を、3節4節から探ってみましょう。

 

3節「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。」

この表現からは、カインの主に対する特別な思いを感じ取ることは容易ではありません。むしろ父に言われてしょうがなく運んできたかのような、彼のぶっきらぼうな姿を想像してしまいますが、あなたにカインはどう映るでしょうか?

 

父アダムはカインに伝えてきたはずです。生い茂る雑草は、人の罪によって地がのろわれからだ と。同様に収穫の実は、神様の日毎の養いといつくしみなのだと。礼拝は、主の養いといつくしみへの感謝なのだと。しかし、祭壇の前のカインは心ここにあらずで、父の福音は彼の魂には届かず、そんなカインを神様は顧みることはありませんでした。

 

4節からのアベルと対比してみましょう。

 

口語訳「その群れの初子と肥えたものとを持ってきた。」新改訳はもっと具体的です。「アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた。」

 

「初子で肥えた羊」とは、飼い主から一番大切にされる、かわいがられる羊ですね。できるなら、年をとっているのとか、やせているのとか、別の羊を手放したいものです。なにをささげてもどうせ焼かれて灰になってしまうのですから——。 けれども、アベルは違います。神様のためなら/罪のおおいとしてこの動物を最初にささげて下さった神様のためなら/父を許して下さった神様のためなら/父を生かし僕をも生かして下さる神様のためなら、これをささげよう。自らの手で一番大切な羊を運びながら、祭壇の前で、彼はそう決意したのでしょう。

 

 

新改訳では、ささげものにする羊を、アベルは自ら持って来た、と記しています。アベルの「ささげる」姿勢は父から強制された様には映っておらず、恵みへの応答として映っています。ここに今日の私達信仰者の献金、または献身の模範が描かれています。こういうアベルの「ささげる」姿は、カインとは違い、健気で麗しいものです。 あなたの「ささげる」姿勢はアベル的なものですか? それともカイン的なものですか?

                                                               

私たちが食料とする地上のいっさいの食物や家畜は今日も神様から受けるものです。神様のいつくしみと養いなしに生きられる者は誰一人いません。私達がその神様から受けた愛の負債を祭壇の前で返すことができるように、それも心から自然にできるように、天にてアダムは今もとりなしていることでしょう。

 

心は隠れた部分です。神様は、むしろその心をご覧になります。見えるささげものから、見えない部分を読み取られます。アベルを顧み、カインを退けた神様はそういう部分をご覧になられました。 その時カインは憤り、顔を地に伏せています

(5節)。心に怒りがある状態を、カインは父と弟に見られたくなかったのでしょうか。家族でありながら、家族にさえ心を読まれるのが嫌だったのでしょうか。又その家族が憎らしくも思えたのでしょうか。皆さん、こういう瞬間に用心して下さい。なぜなら神様と周囲を偽る瞬間、カインの心に戸口で待ち伏せしていたサタンが入り込むからです。追放されたサタンは、残念ながらこんな間近に潜み「ここぞ」という自分の出る瞬間を伺っているのです。

                                                               

私は大学生の時、ある元旦礼拝で一人の牧師の発言に静かな驚きを感じたことがあります。その先生は自分の心の中に小さな悪魔が入り込むときがあったと証しされました。そして、自分の考える思想や感情の醜さに苦しんだと。その後、神様にきよめていただくまで、きよめを求めてひたすら祈らされたのだと証しされました。(そんなことがこんな先生にもあるのか)とその時私は思いま した。この先生の真実な証しに驚きました。人の内面は、他人にはわかりません。カインの心も、ただ神様にしか分からなかったのでしょう。

 

ヘブル人への手紙の11章。ここは「信仰の章」として知られる章です。その4節にこうあります。

「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証しして下さったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」

 

カインとアベルのささげ物のどちらが、どう良かったのか、それは人の目には分からないかもしれません。しかし神様だけは隠れた部分を知り、証を立てて下さいます。

 

マタイ23章35節にアベルの名前が引用されています。「義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺された—ザカリヤの血にいたるまで、地上で流される全ての正しい血の報復があなたがたの上に来

る——」と。

 

この「あなたがた」とは、偽善者を指しています。地上で神と弟アベルを偽ったカインは、人類最初の偽善者となりました。

 

偽善者は、周囲から見てとても正しくきよい人の様に見えてその実は‥‥という裏返しがあり

ます。

 

祭壇の前で神様を礼拝するような素振りで、神様を偽っていしまったカイン。弟アベルを思う良き兄のような素振りで弟を誘い、殺してしまった

カイン。

 

また、ノデの地へ移される時(16節)神様にあわれんでもらいながらも、悔い改めなかったカイン。 偽善者のひな形となったカインを篤とご覧下さい。

 

今日は、父アダムが罪を犯した後に悔い改め、子供たちに信仰心を残すために生涯をささげた様子をお話しました。けれどもカインはというと、子供たちに復讐心を残していったのかもしれません。彼の7代先のレメクは、父祖カインから受けたライフ・メッセージが復讐心だけだったかのように妻たちに父祖カインの名を語り、平気で自分に傷を与える者を殺していっています。

 

新約聖書の第一ヨハネ3章12節にはカインについてこう記されています。

「カインのようで あっては なりません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。」

 

皆さん、今日登場したそれぞれの人物の教訓を覚えて下さい。特に、アダムを覚えて下さい。

 

自分は罪を犯した。そして「あぁもうだめだ」と思った。けれどもあがなわれた。これはアダムのライフ・メッセージです。罪の性質をその子孫に運んでしまった張本人ですが、アダムのライフメッセージは私達にとっての福音です。最初の人アダムは、長男次男で悲みましたが、もう一人の息子セツに、エデンの世界を見せてあげることに成功した人物でもありました。こうして最初のアダムは生きた者とななり、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となって、諸々の罪の連鎖を断ち切られたの

です。(第一コリント1545

 

この最初と最後のアダムにならおうではありませんか!

 

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあな たの家族も救われます。」

使徒行伝163